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巡禮セレクション 2

2017年02月05日(日)

スサノオの母は?

スサノオの母は誰かと問われると?
それはイザナミと答えるのが妥当かと思われます。
実際、古事記も日本書紀にも、最初、イザナギによって海を治めよと命じられたにもかかわらず、スサノオは、母のいる根の国(黄泉の国)に行きたいと言って泣いています。
この母とはイザナミのことです。


なので、神話的に見るとスサノオの母はイザナミだということに異論はないと思います。
しかし、そうなると不思議なことが起きてしまいます。

このスサノオの話の後は、根の国に行く前に天照大神に挨拶に行き、誓約や天の岩戸隠れの話に流れていきます。
その前はというと、イザナギの禊祓の話から繋がっています。


つまり、スサノオをはじめとする三貴神の生誕を伝えているのです。
いわゆる「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に禊祓い給いし時に生れませる」神々です。
この時、スサノオはイザナギの鼻を洗った時に生まれています。
すなわち、スサノオはイザナミから生まれていません。
そればかりか女神ではなく男神から生まれたと書いてあるのです。

その直後にスサノオは、母のいる根の国に行きたいというのです。
スサノオがイザナミから生まれたのであれば、イザナギとイザナミが黄泉平坂で喧嘩別れをする前、すなわち黄泉の国生まれとしか常識的には考えられません。
そうなると、天照大神や月読命も黄泉国生まれということになってしまいます。

逆であれば問題ありません。
つまり黄泉の国に残ったのがイザナギで、小門の阿波岐原で禊をしたのがイザナミであるなら、既にお腹の中に三貴神がいたと解釈できますから。
でも、そうではないでしょう。
つまり、この話は何かの象徴であり事実とは関係なかったということになります。


しかし、日本書紀には、イザナギの禊祓の話の前、イザナギとイザナミの国生みの話の中で、様々な神々を生んだあとに、三貴神を生んだことになっています。
おかしなことに、三貴神誕生話が重複しているのです。
なので、この話は別々の意味で独立していた話を無理やりとって付けたわけです。


書紀にはこうあります。
イザナギとイザナミは、日本の国土を生んだあと、海、川、山そしてククノチ(木の精)と草野姫(草の精)を生んだあと、大霊留女貴(天照大神)を生み、次に月の神を生み、そしてその次はスサノオではなく、蛭児を生んだのですが、足が立たなかったので放流し、その次にスサノオを生んでいます。

そしてこう続きます。
スサノオは、無道であるためこの世を治める器ではないので根の国へ行けとイザナギとイザナミに言われます。
その後に、イザナミはカグツチを生んで死んでしまいます。
つまり、スサノオは母を追って根の国に行ったのではなく、イザナミより先に根の国を治めていたのです。

このほうが古事記よりも辻褄が合っています。
しかも、黄泉の国で、イザナミを追ってきたイザナギに対し、古事記では、既に黄泉戸喫をしたので帰れないのですが、帰りたいので黄泉神にお願いしてくると言います。
その後、イザナギはイザナミを待ちきれず腐りきったイザナミの姿を見て争いになるわけです。
この時のイザナミが話をしに行った黄泉神とは、何かという疑問があったのですが、この黄泉神はスサノオだと考えることが出来そうです。


さて、二柱から生まれたスサノオは、書紀において一書(異論)にあっても乱暴者というか非道な神として書かれています。

僕は、三貴神の誕生話は史実ではないと思っています。
先に書いたとおり矛盾しまくっていますから。
それでも記紀に書かないといけなかったのは、神の威力を認めつつ天照大神よりも下だと記載するためだと思います。

つまりスサノオの力は偉大で恐ろしいものだったのですが、天照大神の統治する世には相応しくないということを示すためです。
この偉大で恐ろしい力とはスサノオを信仰する一族のことだと思います。
出雲王家の伝承で考えるなら、徐福の子孫、物部氏ということになります。

天皇家は物部王家から引き続いだことになっていますから。天照大神創造の際に、どうしてもスサノオを無視することはできなかったのだと思います。
ならば、月読命はどうか?
これは、豊国人(宇佐族)の信仰する神でした。
物部族と宇佐族は結託して東征をしたのです。


イザナギの禊祓の話は、天照大神創造に際しての正統性と共に、他の有力な信仰をまとめる意味があったのだと思います。

おそらく、先に書いた書紀の国土と自然を生んだあとに三貴神プラス蛭児を生んだのも同じ目的だと思います。
そうなると、この蛭児は、おそらく恵比寿神こと事代主命のことだと考えられます。
大和の大王に妃を出した事代主命は偉大なる父神であり、出雲族や登美家にとっても信仰の対象であったのですから、夷と書いて、エビスと読むのも蝦夷の祖先の血に、事代主命の子孫ナガスネヒコが居たからだと思います。


と、ここまでは良いのですが、少しわからないことが出てきました。
三貴神を創造した筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原ですが、ここは現在の宮崎県宮崎市阿波岐原町にあたると考えられています。

黄泉平坂は、出雲にあると考えられていますから、イザナギは出雲から宮崎まで穢れたまま移動して、やっと宮崎で禊をしたことになります。
これも不自然です。もっと早くに禊をしたかったはずです。

考えられるのは、宮崎市で祓戸の神々を生む必要があったということです。
つまり、この時に三貴神の前に様々な神々を生んでいます。
おそらくそれらも天皇家以外のそれぞれの信仰の対象だったのだと思います。

なにが言いたいかというと、みなの信仰する神々は宮崎市で生まれたのだという話です。
神々創造の地として宮崎市に支配者の重要ポイントがあったということです。
なにかの都かもしれないし、故郷かもしれません。

では、今、ここに何が残っているのか?
一番に目につくのは、宮崎神宮です。
ご祭神は、神日本磐余彦尊(神武天皇)=ヤマト・イワレヒコ=を主祭神とし、父神鸕鷀草葺不合尊と母神玉依姫命の2柱を配祀しています。

伝承では、神武天皇のモデルは、大和においては天村雲であり、九州においてはイニエ大王(崇神天皇と重なる)と伝わっています。
つまり、徐福の子孫です。

ここが問題となります。
先ほど、スサノオより天照大神を上にするために三貴神の誕生譚を作ったと言いましたが、それを行ったのがスサノオ=徐福の子孫だということになり矛盾してきそうです。
伝承においても、イニエ大王の本拠として、この辺りに宮を築いたと伝わっているようです。


考えられるのは、スサノオとは結びつかない神武天皇のモデル、もしくは伝承に伝わっていないイニエ大王がいたのではないか・・・ということです。
どうも崇神天皇の名がミマキイリヒコというのと、神武天皇の父がウガヤフキアエズというのが気になるのです。
つまり、ミマキイリは任那から来たという意味で、ウガヤとは上伽耶であるということ。
物部王家の後に伽耶王家が天皇家を引き継いだのではないかという話です。

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