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令和とは時間の時代

平成が空間の時代だったというなら、令和は明らかに時間の時代だ。

 平成のビジネスの目的は距離という概念をゼロにすることだった。

主役はインターネット、そしてLCC、新幹線のオペレーションが究極的に進化したのも平成だ。(余談だが新幹線の恐ろしさはその車体ではなく、完璧なタイムマネジメント、そして天災や事故などのリスクマネジメントにある。ヨーロッパのTGVもすごいがあれは先頭車両が後ろの客車を引っ張っているにすぎない。新幹線は全車両が駆動する) 平成とともに始まったインターネットが牽引した距離を問わないコミュニケーションは、コロナ・ショックによる完全遠隔業務でとどめをさされた。


もはや東京の会社に在阪のまま就職し定年まで勤め上げることも可能になった。これから人々は暮らしと労働を完全に切り分けて、前者はよりフィジカルに(風や波を感じる)、後者はよりバーチャルに(ネットやデジタルで完結させる)なってゆくだろう。距離を人類は克服した。コロナは皮肉だ。人類共通の敵として世界をひとつにしたのだから。人々の心の距離も縮まりつつある。残念ながらそれは土地がもつ独自性も民族の価値観や文化も一元化させていくだろう。 

さて距離を克服した人間の関心は自ずと時間に向かう。 時間の概念をゼロにすること、すなわち時間という誰にとっても絶対軸であったものが変形し、歪み、伸縮性を持つということだ。話が難しい?しかし例えば、人生100年時代と言われて久しいがそんな虚構を信じている人はいるまい。人生の濃度(密度)でいえば、明らかに最初の50歳までが8割、残りの50歳はせいぜい2割の濃度しかない。


想像して欲しいが10才の時の記憶はそのすべての日々が瑞々しく鮮やかに思い浮かぶが、40才の記憶など3つも思いつけばいいほうだ。海馬に蓄えられている記憶の量からしてその程度なのだ。要するに人生は年齢でなくその密度の積分であり、坂本龍馬や三島由紀夫が崇拝されるのも短く太い人生を生きたからだ。もちろん金持ちは医療によって200歳まで生きられるようになるだろう。

だが時間の密度はどうだろうか?

密度が高いことはすなわち幸福であるとは言えないが相関は大きい。幸福とは一体性である。期待と実態の一体性、人と繋がり笑い合い悲しみ合うという一体化の中にある。それは密度の濃い時間と近いとも言える。

布団屋の謳い文句はいつの時代も、人生の3分の1は寝てるのだから寝具には金をかけろ、というものだがこの文言が胡散臭いのも意識を制御できない睡眠という時間が例え長くてもそれほどの価値はない、ということを我々は直観しているからだ。 ではどうすれば時間をねじ曲げ広げて縦横無尽に人生を味わい尽くせるのか?鍵を握るのはやはり意識である。


我々は意識を意識しなければならない。

意識という代物は高速で動き回るまるで制御できない暴れ馬のような存在である。その意識を「留める」のが悟りでありリトリートである。もしくは意識の焦点を他人に対して向け相手の心を敏感に想いとること、意識をはるかに上空に揚げ世界を俯瞰し概念やイメージとして捕らえ切る思考力、意識を環境に当てて風や波や自然の営みを感じ取ること、その微細で大胆な意識の使い方が時間の密度を高めることにつながる。瞬間瞬間の悲喜交々のあらゆる体験が硬いレンガのように重なり合って重層な人生を作り上げる。 時間はお金で作ることもできる。だが活発な意識はそれ自体をお金で作り出すことはできない。


意識(それは光であり粒子だ)は人(や親)から受け取った次へとバトンすべきギフトだ。だからこそこの時代、人は人を選ぶ。会う人、過ごす人、職場(の人)、すべてをわがままに選択するようになる。なぜならそれが時間の密度という幸福に直結するからだ。嫌な顧客に営業することもやめる、たとえ大金を貰えるとあっても人々はそれよりも豊かな時間を選ぶ。


掘建て小屋で自分の好きな物と好きな人に囲まれる生活を選ぶ。教室で机を並べるような馬鹿馬鹿しいことはなくなる。興味(意識)の方向性も知覚の繊細さもまったく個々人で違う。その平均の時間を過ごすような無駄はしない。僕も授業は受けてない。残念ながら離婚も増えるだろう。だが仮に婚姻制度が破綻しても賢い人はひとりのパートナーとの長期的関係は指数関数的に時間密度(幸福度)を引き上げると知っているから丁寧に関係を育ててゆくだろう。


時間が歪むなら新旧の何を大事にしてくるかも変わる。

一般的にアジアは目に見えない五感以上の知覚を大事にし、欧米ではきちんと言語化することが良いと思われているが、欧はより古いものを大切にし、米はより新しいものを評価する傾向がある。しかし時間が歪むならこれらの文化的傾向はどうなるだろうか?とても面白い。いずれにせよ時間の時代は目に見えにくいものに価値が移るからこそ面白い。そこには資本が介入しにくいから尚更だ。


話は尽きないがまとめよう。 時間の密度は幸福へと直結する。そして幸福の本質は主観にある。したがって人々は自分KPIを独自に設定してそれに基づいて生きる。それが短い人生なのか、長生きなのかは関係ない。令和の時代、時間はもはや人々にとって一定でも平等でもない。それは個々人にとって密度という点においてまったく異なるものとなるだろう。

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