日記-2024/05/10
他人の結婚式でカメラ撮影を任されて慣れない操作に苦労して撮り終わったと思ったらフィルムを入れてなかった夢を見た。
夢の中でフィルムが入ってなかったとわかった瞬間全身からぶわっと汗が湧く感覚になったけど、私自身はフィルムを入れ替えられるタイプのカメラを使ったことないんだよな。
それでも夢に見るくらい「やった仕事が根本から台無しになる大ポカ」として認識してるのちょっと面白いかもしれない。
DQ10本筋を少し進めて、エルジュくん周りのストーリーをクリアした。
エルジュくん、葛藤を振り切って真に守るべきもののために人に頭を下げられるようになったのも、主人公を友と認めてくれるのも、すごくかっこいい。
kindle unlimitedで、前々からちょっと気になっていた「奇書の世界史 歴史を動かす“ヤバい書物”の物語」を途中まで読んだ。
かつてはもてはやされていたが現代は悪書扱いを受けている、あるいは当時は顧みられなかったが現代では名著と呼ばれているなどといった、数奇な運命をたどった書「奇書」を取り上げて解説している本。
著者がニコ動などであげたゆっくり解説の動画を下敷きとしているとのこと。
まだ途中までしか読んでいないけれど、現在では悪書とされることの多い本がなぜ成立したか、なぜ当時広く受け入れられたかといったようなことを前提知識を交えながら、本ごとに章立てて解説しており、雑学として興味深い。
エンタメに寄った文体であるため、表現としての多少の誇張はあるのかもしれないけれど……。
読み終えた中だと特に「台湾誌」は成立の流れも失脚の流れもめちゃくちゃ面白い。
振り切れた空想力とレスバ力で虚構の遠国の話を信じさせた男が、著名な学者たちにマジレスされまくって嘘を認めざるを得なくなる流れ、劇的過ぎる。
もとになったゆっくり解説は、本が出た後も削除したりしていないようだし、見てみようかな。
こういうのに触れて、「自分も歴史に学び自分自身が愚かな行動をとっていないか顧みていきたい」と結んでみるのは簡単だし、事実そうしたいのだけど、正直なところどうすればわからない。
私は現代にいたるまで人類が積み重ねてきた知識をある程度インクルードしている以上、この本で取り上げられているような奇書たちを読んだとして、そのまま鵜呑みにすることはないかもしれない。
でもそれはこの奇書たちを受け入れていた当時の人々より私がすぐれているからではないんだよな。
私は引力の概念を小さいころから知っていたけど、それは私がニュートンより観察力や学力があったことを示すわけではないのと同じようなもの。
だから今の正しいとされている学説にフィッティングするような理屈を並べたうえで、とんでもない結論に誘導するような本を読んだとして、自分がそれに踊らされない自信がない。
もちろん誤った知識のもとに誤った行動をとることは本意じゃないのだからどうにかして避けたいのだけど、じゃあどうするか?どうやれば嘘を避けられるか?という具体的な方法が全く思いつかない。
結局のところ、正しい知識をより抜くための知識も能力も無いのだ。
だから、「正しさ」を見分けるという行為がとんでもなく重たいタスクになってしまっている。
おそらく、それは大人になって社会に出る前に当たり前にできるようになってしかるべきものだったのだろう。
ふわふわと波間に漂うようにぼんやりと歳を取ってきた結果、足もつかず、陸まで泳ぐのも無理そうなところまでいつの間にか流されてしまっている。それが私の現状である。
そのことを自覚する機会はたまに訪れるし、そのたびにむやみに怖くなってしまう。そして、寝て起きたら忘れているということを繰り返している。
どうしようもない。
できることはせめて、得た情報はどんなものでも一瞬疑ってみる癖をつける、すぐに真偽の結論を下せなさそうなものは保留にしておくようにするくらいだろうか。
真偽を見分けられないのなら、受け入れるまでを長くすれば多少はましになる……はず。
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