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【講談(3)】 『ミスター絶好調誕生』



 「絶好調!」

これは元横浜DeNAベイスターズの監督、中畑清の決め台詞です。
 中畑清は昭和29年、1954年、福島県は矢吹町の酪農家の息子として生まれました。少年時代は毎朝乳搾りをして家業を手伝いながら、野球にも打ち込む毎日でした。巨人軍の長島一雄選手に
「俺もこんなふうになりたい!」
 と憧れます。
 駒澤大学に進学すると、大田監督のアドバイスで王貞治選手を真似た一本足打法を身につけ、ベストナインに輝いたのが2年春、次いで駒沢大を3年ぶりの優勝に導き最高殊勲選手に選ばれたのが1973年の秋でした。
 1975年のプロ野球ドラフト会議。中畑のライバルは篠塚利夫。高校生です。
 結局篠塚が1位指名を勝ち取り、中畑は3位。「高卒の人間が先に指名された」とがっかりしましたが、そのとき、憧れの長嶋一雄が監督であったことから、プロ入りを決めます。それから3年間は2軍におり、性格も根暗、あまり目立った活躍はありませんでした。
 1978年の日米親善野球でホームランを打ったのをきっかけに、その後一軍入りを果たします。

 この頃、練習中に長嶋監督から
「清、調子はどうだ?」
「ええ、まずまずです」
「清、最近調子はどうだ?」
「悪くないです」
「清、調子は?」
「まあまあです」
 これを聞いていた土井正三コーチ、
「清、監督に調子を聞かれて『まずまずです』なんて答える選手が使ってもらえるか? どんなときでも『絶好調』と答えろ」
 と叱ります。中畑は真面目で素直な性格でしたから、その後バットを振っても「絶好調」、ボールを投げれば「絶好調」、もちろんヒットを出せば「絶好調」、エラーをしても「絶好調!」、ことあるごとに「絶好調」とつぶやきます。
「清、調子はどうだ?」
「絶好調です!」
 以来中畑は「絶好調男」「ヤッターマン」などと呼ばれ人気者になり、1982年からは7年つづけてゴールデングラブ賞を受賞、華々しい成績を収めるのであります。
 『ミスター絶好調誕生』の一席、これをもって読み終わりといたします。



Ver 1.1 2022/5/1

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