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向日葵

 容赦なく照りつける日差しが、夏の訪れを知らせていた。北国のはずなのに暑いのがきつかった。

 もしできることなら引き返したいというのが本音であった。東京を離れる覚悟などなく、僕は彼女を見つめながら、すでに大きく事が進んでいることに不安を覚えていた。


 彼女と出会って、ほんの七ヶ月しか経っていない。旅先の船着き場の近くにあるバーのカウンターで出会った。端と端の席に座っていたのに目があって、僕が酒をおごり、向こうから僕の隣の席に移動してきて、会話が弾んで。そんな、あまりにベタで空想するだけでも恥ずかしいような男女の出会いというものが現実にあり、僕らは付き合うことになった。

 ただ、現実感があまりになかった。

 「ねえ、じゃあ結婚しよう」

 「ねえ、じゃあ北海道に暮らそう」

 「ねえ、じゃあ・・・」

 次々とくり広げられる彼女の提案。僕らはまもなく籍を入れ、北海道に家を買い、雑貨屋を営もう、という話になっている。彼女には、ためらいがない。

 僕はというと、彼女に逆らうこともできず、「ああ、そうだね」と、同意を示すことしかできなかった。勤めていた仕事は元からやめたいと思っていたのでやめた。だけど、急な変化に気持ちがついていかなかった。でも彼女を手放したくなかった。決して美人という部類には入らないであろうが、彼女とは例外なく話が盛り上がり、いると楽しくなることが保証されている。いつも新しい場所に出かけることを彼女が提案しては、新しい体験をいっしょにするのだ。それは退屈な僕の生活に大きな彩りを与えていた。

 いっそ彩るなら、住む場所も変えればよいのかな。なんとか思うことにする。


 H町が住民を外部から受け入れている。彼女がそんな情報を仕入れてきたのが三ヶ月前だ。H町に移住すると、引越し費用とかなりの額の支援金が出るのだという。町に三年暮らしさえすれば返却の義務がない。賃貸でなく家を持つと支援額はさらに上がる。要は町が、人口を喉から手が出るほどほしがっているのだ。

 それで、住む場所を決めることになった。僕たちはH町に下見に来ていた。次々と彼女の提案に従い、レンタカーを借りて売り家を見て回った。するとその中の一軒に格安のものがあった。不動産業者に案内してもらうことになった。

 現れた業者の人は頭を抱えながら、「ま、見れば判りますけれどね。いい物件ではあるんですけれど」と言って、鍵を開け、中に入れてくれた。

 「こういうわけでして」

 なるほど、広い庭付き二階建ての一軒屋が三百万円で売られているのは、なにも呪われた家というわけではない。壁中に穴があいているからであった。ここに住んでいたお子さんがたいそう乱暴者で、壁を叩きまくったというわけだ。そのお子さんを含め、住んでいた家族はずっと以前に引っ越していてもういないのだが、家はしばらくの間高い値段のついたまま買い手がつかなかったという。業者の人は説明を続けた。

 「うちは積極的に物件を値切っているんです。町と共同でプロジェクトを組んでいましてね。売れない物件があまりに多いもので。思い入れがあると、人はなかなか安く家を手放さないんですよ。だから適正でない価格がついているんですよ。だから住む人もない廃墟みたいのが増えてしまうんですね。それでは町は寂れてしまいます。ですから我々は、持ち主を丁寧に説得しましてね・・・」

 苦労が顔ににじみ出ている中年男性の話を聞いているうちに、僕の中で心変わりが起きた。

 僕はもう三十五歳だ。実はこれまで、すごくいい関係になった女性はいなかったわけじゃない。だが女性を選別してきた。それもどちらかというと、顔で。もっといい女性が自分にはふさわしいとまで偉そうなことを思ったことはないが、でもそういう人が現れる可能性はあるはずだ、と思って女性たちをあっさり結婚の候補からはずしてきたのである。だけどランクは下がっていくばかり。せめて前の彼女くらいのレベルの人と出会うまでは待とう、などと思っているうちにこんな歳になってしまったのだ。

 そうだ。この人が説明してくれる、家を売るのと同じことだ。もっと価値があるはずだ、などと自分で決めてしまって売り時を逃すと、ひどく安く買い叩かれる。そういえば、僕のおばさんも田園調布の家が売れない売れないと、騒いでいたっけ。

 自分の人生を考える。彼女と過ごすのは楽しい。もうたぶんこんな子は自分の前には現れないだろう。自分は結婚に、自分でストップをかけてきたのだ。今、それが外されそうとしている。結婚だけじゃない。冒険をしないで生きてきた自分は、失敗さえ手に入れることなくこんな歳になってしまったのだ。

 自分を試すには最高の土地に来たんじゃないか。自分の人生を、わくわくするほうに進めよう。そう思えてきた。

 ただ、穴だらけの家はいただけなかった。いくら安いとはいえ、暮らしていて気分が滅入るのは嫌だ。わくわくに水をさす。そこだけは自己主張して「これはないよね」と僕は言った。だが、彼女は

 「この家、すごくいいよ」

 と推してきたのである。それにはさすがに驚いた。

 「いいの?」

 「え、だってこの家にあった物語ごと買えるじゃない。それに、スタートにかけるお金は少ない方がいいよ」

 穴などはいかようにも隠せるし、それもまた遊びのようで面白い、云々。彼女の中で、この家を買うことにほぼ決めているようだった。

 好奇心が強いんだな。それでもまだ納得できないところもあった。僕は二階に上がり、窓から外を眺めた。

 「ほらさ。窓からの景色もいいじゃない」

 彼女が言ったほうの窓を見ると、家の畑が広がっていた。そこには一面、ひまわりの花が咲いていて、ちょうどこちらに顔を向けていた。

 「あ」

 と彼女が言った。なにやら反射的に窓を閉めてしまった。

 「どうしたの。虫でもいた?」

 彼女は、いや、やはりひまわりがきれいだ、と言って笑顔を繕った。何か嫌なものがあったのかもしれない。ただ僕はというと、そのひまわりの景色は気に入った。

 「うん、いいな」

 「そうだよね。いいよね」

 彼女がこの家を気に入ったことは変わっていなかった。


 やがて僕らはこの家に引越した。

 ・・・とはいかなかった。引っ越したのは僕だけだ。彼女は消えたから。

 やられたらしい。結婚詐欺だ。それも、雑貨屋をやるために出したお金だけじゃなくて、町からの支援金も奪っていった。北海道にまで来たのはそれが狙いであったのだ。ぼろい家に住むことを選んだのは、僕から奪う貯金が少しでも減らないようにと考えてのことであったようだ。

 この詐欺のとんでもないのは、支援金の返却をせずに済ませるために、僕はこの町に三年間住まなくてはいけない、ということだ。金を奪われただけでなく、住んでいたところまで追い出される形になってしまった。

 夏は涼しくないし、冬の寒さを思うとうんざりした。それも、二人なら乗り越えられると思っていたのに、騙されて一人きりだ。


 彼女の手際の良さを思うと、詐欺は僕一件だけではないだろう。これまでにも似たようなことで男を騙してきたし、これからもするかもしれない。


 僕は、引越し荷物が届く前の穴だらけの家の二階で、佇んでいた。窓を開け、夕日の中の景色を見やる。

 それにしても彼女は、この窓から何を見たのだろう。かつて騙した男が偶然に通りがかったかな、とも思った。大量に男を騙してはこの町に送り込んでいればそういうこともあるかもしれない。だがさすがにそれはないだろう。移住者に支援金を出す自治体はいくらもあると思われるからだ。

 畑のひまわりを見た。みんなこちらを見ていた。

 ああ、これか。まるでじーっと大勢に見られているような気になってくる。彼女はそれに耐えられなかったんだ。

 そんなことを思って長いことそこにいると、笑えてきた。あいつの生き方、そんなに楽じゃないだろうな。いくらお金が入っても、後ろめたく生きていくしかないんだろうな。


 僕は僕の人生のことを考えることにした。とりあえず、恥ずかしくなく生きていくところからやり直してみようか。




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