久しぶりに寄席へ
師匠がトリを務めたので、久しぶりに寄席に行ってきた。
人の数は少ない。だが、平日の夜の部は、一昔前もこんな感じだったかもしれない。落語ブームが比較的長く続き、そこに講談ブームまでやってきた。寄席が賑わいつづけているのが少し驚きなのだ。もちろん嬉しい。
師匠はお馴染みの根多を披露してくれた。『牡丹燈籠ーーお札はがし』である。体形が、幽霊のそれの2倍近くになっていたのは若干気になるところであるが、まあそれはご愛嬌。笑いを取りながらも怪談の定番に引きずり込んでもらった。
以前根多としてnoteに挙げたが・・
あ、ネタバレしたくない人は、先にこちらのnoteを読んでください。
・・続ける。やはり牡丹灯籠は、伴蔵がまずお峯を騙しているな、と思うのである。師匠の語りから、そう確信した。
といっても、落語・講談の解釈というのは、他の文学作品とちょっと違うところがある。
テキストが固定していないのだ。それはストーリーが、口で語られるものだからだ。師匠から弟子に伝えられる際は、その型を守るように伝えられる。ところが生物が突然変異するように、型は少しずつ破られるのである。まずどの一門が語るかで差が出る。師匠と弟子の間でも、アレンジが出る。
そうなると解釈は『牡丹燈籠』なら『牡丹燈籠』で、演じる毎に違うものとして成り立つことになる。私は、「解釈はどのようにしてもよい」という立場を取らず「真の意味を探る」ということを好むほうだが、これでは探りようがない。
だから落語・講談の解釈は、「どう演るのが面白いのか」という功利の観点から考えることになる。そのへんは厳密な科学とは言い難い医療の話になんか似ている。「役に立つ」が正しい、の世界だ。
かつて幽霊画を、所有するかたに見せていただいたことがあるが、なるほど幽かなる霊であった。ほんとうにうっすらとしか描かかれていないのだ。江戸時代ほとんど明かりのない中では、見えなかったのではないだろうか。それでもなにも描かれていないわけではないので、そこに存在だけはなにか感じたのではないか。
絵師の執念のようなものを感じ、ぞっとした。誠に良いものを見た。
ところが牡丹燈籠の「幽霊」たちである。カランコロンと足音まで立てるお露、伴蔵に幾晩も交渉し百両まで持参する女中のお峯は、少しも幽かではない。ここを作品の欠点と考えるのではなく、「なんか怪しいぞ」と私は思った。いや正しくは、「ここ、面白くなるぞ」か。
とまあ、牡丹燈籠の解釈はここまでにしよう。
根多の後に師匠の踊りを披露してくれた。発表会に行ったときは遠くて細部までは見えなかったが、寄席だと近くてよく見えた。所作の細やかでしなやかな様子が伝わってきて、うっとりとさせられた。やはり師匠は、芸の人である。
東京を出るので、もう寄席には通えない。しばらく無沙汰をしていたが、これからは会おうにも会えなくなる。最後の最後に、新しい根多ではなく、自分がもっとも稽古をつけてもらった根多を見ることができたことに、偶然ならぬものが感じられてならなかった。
師匠、ありがとうございました。
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