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残っているから。

昨日は4月28日。
これはあたしにとって忘れられない日で。

この日が来るともの凄く感慨に浸れるというか、
何とも言えない心持ちになるというか。

ホントならば昨日書けばよかったのに、
仕事でなかなか時間が取れず、
気付けばスマホ片手にnoteのアプリを出していた状態なのに、
電気をつけたまんまで寝オチ・・・。

1日経ってこんな事を書くのも正直情けないけれど、
書かずにはいられなかったのでこれから暫しのお付き合いを。

1990年4月28日

これはあたしが埼玉県八潮市に住んでいた頃で、
当時小学校3年生になったばかりの話でして。

なかなか昔の事を思い出せないのだが、
これだけはやはりイヤでも覚えてしまっている。

それは夕方頃の出来事だった。

近所のMくん(仮名)の家でファミコンで遊んでいたふくたろう少年。

この時スーパーファミコンが世に出るかという時ですが、
まだこの時はファミコンが隆盛を極めていた時。

ファミコンにハマってはいたけれど、
いかんせん腕が無かった(笑)。

今でも3DSとかやり込んでいるのも、
当時の悔しさがあったからか。

リベンジを誓いつつMくんの家を出て、
自転車で自宅へ帰ろうとした時。

Mくんの家の近くのT字路をスピードを上げて左折しようとした時だ。

左から右折してきた軽自動車と正面衝突して、
衝撃で身体を吹っ飛ばされてアスファルトに打ち付けられたのだ。

多分その時の音が凄い音がしたのだろう。
近所の方が家から飛び出してきて、
すぐに救急車が到着したのだ。

その間だけ、
やたら秒速のような感じで記憶していたと思ったが、
多分そこまで30分程度の事だったのかもしれない。

救急搬送される車内で、
「どうしちゃったのかな?」

血がダラダラ流れていたし、
打ち付けられた痛みで耄碌(もうろく)していたのか、
驚く程に冷静だったのが今にしてみれば不思議だった。

しかし。
事は一刻を争った。

救急搬送中にプツッと記憶が途絶える。

何故途絶えてしまったのか?

その事を後から聞いて、
あたしは子どもながらに絶句してしまう。

それは頭蓋骨骨折で、
意識不明の重体だったからだ。

・・・言葉が出なかった。

その怪我の事実は記憶が途絶えていた時で、
後々聞かされたのだ。

救急搬送されたのが、
八潮市の隣の三郷市にある三郷順心病院。

当時脳外科があった病院で、
当時住んでいた家から車でだいたい30分くらいは掛かるところにあった。

そこで緊急手術が行われたようだ。

あたしが目が覚めた時には集中治療室、
今で言うところのICUで身動きが取れずにいたのだ。

「どうしちゃったんだろう?」

そう思うのも無理はない。
後に一般病棟に移されてから鏡で見たあたしの左目と眉毛の間には、
傷を縫った生々し過ぎる痕跡があったのだから。

事の重大さを何となく分かってきたのが、
事故を起こしたドライバーさんとか、
通っていた小学校の校長先生、
仕事が忙しくてなかなか会えていなかったおかんが連日ひっきりなしに病室を尋ねるからだ。

今でこそこのご時世で「死」への恐怖感がいつも付きまとっているのだが、
あたしの場合はちょいとしたそよ風くらいでも生命の炎が消えてしまう寸前という、
まさしく生死の狭間を彷徨っていた事を、
当時小学3年生のハナタレ坊主が受け止めるにはあまりにもキャパオーバーが過ぎたのだ。

そしてその後遺症なのかはよくわからないが、
事故後は何だかボ〜ッとする事が多くなり物事をなかなか覚えられず、
学校の成績も段々と悪くなっていった記憶が。

更に周りから、
「事故ったからバカになったんだ!」といじめられるようになった。

今思えば、
それがADHD(注意欠陥・多動性障害)という後遺症を抱える原因にもなったらしい。

当時はそういう発達障害などがまだ認知されていない時だし、
「あたしはバカなんだ」って認めざるを得なかったバックボーンもあった。

それから鈍くさい生き方で周りからあんまり良くは見られていなかった気がする。

正直小学校からの古い友達なんて皆無だし、
同窓会なんて行く気すら起きなかった。

でも今は何とか這いつくばって生きていけている。

死んじゃうのは怖い。
でももしその時が来たら受け入れる覚悟は人一倍ある。

今でも左目と眉毛の間に残っている古傷を見る度に、
「今日も何とか生きられた」と再確認している自分がいる。

(了)

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