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緑のとさか

自分が幼稚園に通っていたころ、今も心に残っているエピソードが2つあります。

1つは、「なかしまゆうき」くんという男の子が好きだったこと。好きなあまり、今度生まれる弟の名前は何がいいかと両親に聞かれたとき、「ゆうき」と答えたら本当に弟の名前が「ゆうき」になりました。

2つめは緑のとさか。ある日、幼稚園でにわとりを描くというお題が出て、友だちと二人並んでクレヨンでにわとりを描いていました。その当時の私は、理由はわかりませんが、にわとりのとさかを赤色ではなく緑色にしたかったようで、緑で描いていたら幼稚園の先生に「にわとりのとさかは緑じゃなくて赤でしょ」と言われ、赤色に直したことを鮮明に覚えています。(とさかが緑色に見えていたわけではありません。)そのときの私はたぶん、先生に「間違い」を指摘されて恥ずかしいのと、なぜとさかを緑にしてはいけないのか釈然としない気持ちが混ざっていたように思います。

大人になった今もなぜこの出来事を覚えているのか、わかりません。でも、あのとき先生が緑のとさかを否定せず「なんでとさかを緑にしたの?」と声をかけていてくれればどうなっただろうと、ときどき思い出します。

海外(ヨーロッパ)で日本語教師として働いているとき、現地の中学校や高校の日本語の授業に参加させてもらう機会が何度かありました。私がいた国の学校には制服がないところがほとんどで、生徒も思い思いの格好で通学していました。高校生ぐらいになると服に好みが出てくるので、全身黒で決めているロック好きな子、かばんを好きなアニメのバッジでいっぱいにしている子、流行に敏感な子、格好には無頓着な子、赤やピンクの髪に染めている子など、思い思いの格好をしていました。そんな彼らのクラスに参加し、カラフルな光景を目にしたとき、それぞれが好きなように自分を表現する自由、それを誰も咎めずお互いを受け入れるあたたかさを感じました。何より教育の現場において「自由である」ことを視覚的に認識し、とても新鮮な気持ちになりました。

「とさかは赤色にしなさい」と先生に指示される幼稚園生。自分のやりたいように服装や髪型を自由にできる中高校生。この2つはその行為の目的も表現方法も教育段階も違うので単純に比べることはできませんが、でも、自分を表すという点においては共通していると思っています。

私がヨーロッパの学校で受けた新鮮さは、私が「緑のとさかを赤にする」ことを自分でも気がつかないうちに周囲の人やメディアからの影響で学習してきたからかもしれません。この経験のみで主語を大きくして「日本は〜」「ヨーロッパは〜」と語ることはしませんし、できません。でも、少なくとも私は今まで自分を表現することに自ずと制限をかけたり、枠に当てはめたりしていたように思います。

赤いとさかも緑のとさかも、ピンクも黒も白も青もどんな色のとさかのにわとりを描いたって受け入れる社会にしたい。これは私の決意であり願いです。

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