6月14日(日) 愛のセオリー

ニチアサ。かと思われたが、新しいエアコンが朝搬入されるとのことでニチアサ視聴は持ち越し。ずっとリビングで我々を見守って来たエアコン氏を最後に撮っておく。
ニチアサの代わりに『Theory of Love』の続きを観ていくことにした。

人が入って来た気配があったが親に任せてカイとサードくんを見守る。
人が出て行った気配があったためリビングに出ると真新しいエアコンが試運転をしていた。南極のように寒い。

モコモコの上着を着てゼロワン・キラメイジャーの録画を早送りでざっと観る。総集編もそろそろ飽きて来たから早送りで丁度良かった。
すると両番組とも来週からはついに新エピソードという予告が出た。やった!!!本物の日曜日が帰ってくる!

昼食はピザ。
ピザ後、『Theory of Love』残り二話を見届けた。
いやー、素晴らしいドラマを観たと思う。人間が愛によって変化していく過程を手加減せず丁寧に描き、映画の引用を絡めて洒落たストーリーテリングで魅せ切った力作だった。
サブキャラの恋愛模様も最後まで面白く、BLの文脈から正しく逸脱した大衆向けドラマとしてレベルの高すぎる仕上がりだった。

でも・・・それだけじゃないかと思ってしまう。
凄く楽しんでいたはずなのに、最後まで観た今どこか釈然としない。
作劇が真面目すぎて逆に「良く作られているだけの作り物」のように感じてしまったのだろうか。それとも過ちを経てやり直すような愛の形に共感出来なかったのか。あるいはシリアスすぎて萌えるシーンが少なく物足りなかったのか。
こういう真摯な物語に冷めてしまうのは何か私の心に問題がありそうな気もするから考えておきたい。

とはいえ映画製作にまつわる部分は凄く良くて刺激を受けたし、友達のBoneとTwoがずっと良い奴らなのも見ていて気持ち良かったし、思い返せば心に残っていることが沢山ある。時間差でじわじわ響いてくるタイプなのか。
確実に言えるのは役者が皆好演で特にサード役のGunくんのお芝居が喜怒哀楽全てにおいて素晴らしかったということ。タイの芸能界、逸材だらけでバグってないか。

ただまあ次なるタイドラマを観るまでは一旦期間を置こうと思う。連続で恋愛ドラマを観るのに疲れてきたというのはあった。
誤解や嫉妬や何やでキャラクターの心を曇らせないとストーリーを進められないというのは恋愛物語の欠陥なんじゃないか?かといって順風満帆なカップルの日常だけ映しても求心力がないし・・・。
無性に保坂和志を読みたくなる。ストーリー性と無縁の地平で面白い小説を書き続けている保坂さんの本を・・・。

それは後日にして、ホットココアで一息つきながら昨日買ったスーザン・ソンタグ『写真論』を読み始める。最初からグイグイ面白い。

観光客は自分と、自分が出会う珍らしいものの間にカメラを置かざるをえないような気持になるものだ。どう反応してよいかわからず、彼らは写真を撮る。おかげで経験に恰好がつく。立ち止り、写真を撮り、先へ進む。この方法はがむしゃらな労働の美徳に冒された国民であるドイツ人と日本人とアメリカ人にはとりわけ具合がよい。ふだんあくせく働いている人たちが休日で遊んでいるはずなのに、働いていないとどうも不安であるというのも、カメラを使えば落ち着くのである。彼らにはいまや労働を優しく模倣したような手仕事ができた___彼らは写真を撮ればよい。
スーザン・ソンタグ『写真論』p.18

辛辣だけれど的確な表現に笑ってしまった。この後続く70年代の日本人団体観光客を指した皮肉にも笑ってしまった。

彼らは近ごろ円高の奇蹟によって列島監獄から解放され、たいがい両腰に一台ずつ、二台のカメラで武装しているのである。
スーザン・ソンタグ『写真論』p.18

近頃はメディアで例えば「協力して自粛した日本人」のような雰囲気に出会うことが多かったからか「列島監獄」という言葉は凄く新鮮に居心地悪く突き刺さる。日本人を外からの視点で強烈に皮肉るこういう表現を積極的に探して読んでいきたい気がする。

読むうちに生理の影響もあってか猛烈な眠気に襲われ1時間ほど寝た。変な目覚めだった。
『Theory of Love』の釈然としなさをまだ引きずっていたためなんとなくPassCodeのライブ映像を観る。こういう熱さこそが私の欲しい何かだ、と思ってしまう。

夜は唐揚げ。東京の感染者数が47人というニュースを見て四十七士だなあと思う。
新宿で遊ぶ人達への街頭インタビューを見て異民族だなあと思う。

やっぱり少し保坂和志を読んで寝ようか。色々なものに触れて良さを発見したり良くない理由を考えたりして自分の輪郭を確かめていきながら時々保坂さんという基軸に戻って自分の核をメンテする、これが最強の生き方なのかもしれない。

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