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旅の楽しさを迎えにいこう

楽しむということは幅広い教養と血が滲むような訓練によって培われる大変高度なスキルであるという命題の木の下で、今回の文章は始まり終わります。つまらないことのうち大概は、この技術をもってすれば楽しみという対岸に船で渡してやれるというわけです。煎じ詰めれば 私たちが「おもんない」と何かを切り捨てるということは、自分の知識や感性が海抜ゼロメートル地帯にあることを認める捺印をするに等しいと私は言いたい、言ってやりたい!

街宣車から垂れ流される提言のごとくエクストリームに感ずられるかもしれませんが、このことを最近いろんな場面で感じます。例えば 一人寂しい夜。手を伸ばす作品、流れる時間、絶望する副腎髄質、怒りで満ちる交感神経。「こんなつまんないものを世の中にだすんじゃあないよ」と素人批評家気分で引き下がっておくのが幸せ。しかし最近になってその落胆と苛立ちの後に続くのは「む。いや待てよ。これの良さって、私が解っていないだけなのでは・・」という自分には重要なレセプターの欠如疑惑。評価されてる作品を否定するのはニヒリストみたいでカッコいい気がしていたのは若さの特権だったのか、今やその美しさをどこかに認めないと自分にバックファイヤーが襲ってくるという厄介な場所で体操座りを余儀なくされています。そんなわけで最近は今までシャキっと切り捨ててきた様々な作品たち(特にジャパニーズポップス)との再融合を試みているわけですが、その議論はまた今度の機会に。

そんな中での救済的事実であるのが、つまらなさ と長らく伴走する時間なんて忙しい日常の中では限られているということです。ましてやインターネッツたるものが、今やあらゆる暇つぶし(尊重を込めて)へのアクセシビリティを高め、冒頭数分いや数秒で我々の興味関心をグリップできなかったモノたちへのスキップを当たり前のように許されている今、我々のつまらなさトーラレンスが年々首都東京で訓練を重ねる米軍ヘリのごとく低空飛行に磨きをかけ、私たちがつまらないという状態と向き合わねばならん機会が減ってきていると身をもって実感しています。

そんな日常の対局にあるのが旅であると思うのです。旅は一見煮出して煮詰めて絞って熟成させた純度100% 雑味ナシの面白さの真骨頂のような印象すらありますが、旅ほどつまらなさと戦わねばならぬ機会はないとゆゆしくも感じます。(※注:ここでの旅とは大変狭義で、何もしないことを目的とするバケーションや旅程がガチガチに詰まった1泊2日弾丸旅行、目的がはっきりしているアクティビティ旅行(スキー旅行など)等々は含まれず、その行き先への漠然としたイメージへの憧れだけを頼りに訪れ、「何か向こうで楽しいことしよう」というそれなりの期待だけを持っていく旅行を指します。)何贅沢なこと言ってんだとチョークでも飛んできそうだなという常識的な感覚は持ち合わせた上で申し上げてる発言であります。

認めたくないだろうけど、ここで勇気をもって認めようではありませんか。その地名に対する勝手なイメージだけが勝手に盛り上がって、行ってみたけど「あれ案外やることないかも」ってふと不安になる一瞬。旅っていうものは厄介で、2日なら2日、10日なら10日、ずっと余暇。旅行の長さ=「たのしまないといけない」時間。でも楽しむのって、超難しい。例えば綺麗なビーチに出たとして、わあ綺麗。素敵な山を見たとして、まあ素敵。しかし人間は本当に贅沢に生きるようにプログラムされている哀しい生き物で、感動でいっぱいだった目の前の景色も、数分もすれば「まあこんなもんか」といつの間にかアドレナリンが引っ込んでいく。最初はわくわくして歩いた畦道も、さっきまでの少年のような好奇心はどこへやら「いつまで続くんだよ」と脳が新鮮なドーパミンを求めてくる。

お金を払ってたまの休みをかけてきた旅行がつまらないはずがない!その争い方は人それぞれですが、私は長い間そういった場合に 酒というドラッグで強制的に脳内ホルモンを引き上げる または 認知能力を下げることによって無理矢理「楽しんでいる」状態を創出しておりました。いや別に酒の力を借りることを悪だとは思っていないですが、ある時私は気づいたのです。この旅という精神の修行のような場において「楽しむこと」という熟練した技術を会得したものだけがこの場の覇者になれるのだと。

初めて目にしたその能力の持ち主は、飛騨高山で見かけた老夫婦でした。私はだらっと酒蔵にある中庭に座って見慣れてしまった風景はすでに背景と化し、携帯をイジイジ微量なドーパミンを頭に送り込むことで旅の時間を潰しておりました。その時のったりと現れたのは恐らく80回は大晦日を迎えられていることであろうご夫婦。そのゆっくりとした歩みが向けられたのは中庭に鎮座するごく普通の木。私は引き継ぎ携帯のブルーライトを浴びながら、その夫婦からピントをずらしていると「◯◯の葉の色が少し変わってきてる、もう秋ね」みたいなことをボソッと奥さん。木から伸びる枝葉に顔を近づけ、繁々と様子を観察しながらそれに答える旦那さん。・・・このやろう。私にとっては無名の木ごときで、秋の始まりを感じ、会話が盛り上がっている。なんなんだこの差は

これは大袈裟に聞こえるかもしれませんが私にとっては大変ショッキングなことでした。私は何を隠そう自他共に認めるいわゆるパーティピーポー。楽しむことなら私に任せて(キラッ)みたいなアイデンティティにすがっていた人生は虚無なのか。私は、お膳立てされた「楽しみ」でしか楽しんでいないではないか。この老夫婦の方が、よっぽどパーティーピーポーではないか・・・!

それからというもの私は自ら楽しみを迎えにいく人たちに対しての敬意が止まらないのですが、特に国内旅行をしている時にその能力の差を感ずるのです。国内旅行は海外旅行よりも、楽しむ事において能動性が必要であると思うのです。ただガイドブックに沿って観光名所の前でピースサインをするだけでは分からない、地名に横たわる歴史、過去をありありと映す地層、いつもと違う空気の厚み、静かにそこに存在する植物・生物。そういった事に目を向けて感じようとする余裕や、思いを馳せるための知識や感性いうのは、自らそうあろうとする人でないと身につかないものであると思います。

よく男女の間のリレーションシップでもいうじゃないですか。 "Relationship is a two-way street"って。どっちかがどっちかに、全てのお膳立てを頼り切ってしまったらその関係は破綻するよね。世界と自分とのリレーションシップもまさに同じで、あぐらをかいて「はい楽しましてくれや」なんてそんな失礼な態度じゃアナタそりゃ振られちゃいますよ。自ら能動性をもって、自ら楽しみを創造できる人は、自分と世界との間に幸せを創造できる人であり、言わばその人の人生の覇者となるな、と。私は自分の人生における覇者になれるのか、そんなことを思いながら四万十川へのグルグル長いドライブを乗り越え、淡路島の山上にある城を一眼見るがためにえっちらおっちら登ったハイクを思い出しながらの、先月終えた四国旅の思考の回想録でした。

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