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2020年代を生き抜くための必読書10冊

「本を読まずして君たちは何に時間を費やすのか」

ここでは、これからの2020年代を生きる上で、欠かすことのできない羅針盤となるであろう10冊の本を厳選して紹介したい。

1、ニーチェ『ツァラトゥストラ』

真理を愛する者の戦い方を、ニーチェ以上に見事に展開した者はほかに存在しない。

「神の死」が宣告される『悦ばしき知識』の重要性は言うまでもないが、初期の『悲劇の誕生』にも審美的に傑出したニーチェ独自の感性が迸っている。

しかしここではとりわけ、十代後半の頃の私に哲学の洗礼を与えた『ツァラトゥストラはかく語りき』を挙げておこう。

ドイツ文学研究の権威でもあった手塚富雄の名訳をお勧めしたい。

2、ヘーゲル『論理の学』

全集版では『大論理学』として知られる、ヘーゲルの『精神現象学』と並ぶ主著である。

ヘーゲルは少年時代に敬虔なプロテスタントだった最愛の母マリア・マグダレーナを失ったが、彼女の信仰は哲学体系として新たな形式のもとに再現前する。

私たちがまず知らねばならないのは、ヘーゲルがニーチェと同じく人間存在の「不幸な意識」に対する根源的な超克を試みた哲学者であるという点である。

この問題は『精神現象学』の「自己意識」論で詳述されるが、『大論理学』もまた「緒言」にあるように、全体として「神の叙述」を企図して体系化されている。

ヘーゲル哲学の最古層には若きヘーゲルの背負った「不幸な意識」がある。

これを出発点としてヘーゲルを読むと、堅牢な体系の奥底に流れるヘーゲルの「キリスト教的学識者」(ハービソン)としての深い自負を感じとることができるだろう。

思弁的転回後のヘーゲル哲学の再構成という点では、とりわけ『大論理学』第二巻の「現実性」についての議論が重要である。

そこでヘーゲルは必然性と偶然性の二項対立を思弁的に統一する「絶対的現実性」について論じている。

一方、この二項対立を一方の項に限局したものがメイヤスーの「絶対的偶然性」であり、この思惟方法には明確にヘーゲルへの戦略的含意が見て取れる。

昨今高まりつつある英米仏圏でのヘーゲル・ルネサンスの興隆について考える上でも、その理論的主著である本書はまさに必読書中の必読書だと言えるだろう。

3、デリダ『死を与える』

フランス現代思想はかつてのフーコー、ドゥルーズ、デリダの御三家から、今やバディウ、メイヤスー、マラブー、ラトゥールといった顔ぶれへと変化しつつある。

その中でもデリダは、思弁的唯物論、ポストヒューマニティーズ、アニマルスタディーズなどといった現代思想においてラディカルな思潮のプロトタイプをすでに展開していた点で、特筆すべき存在である。

とりわけ後期のデリダはヘーゲル論『弔鐘』以後、自身のユダヤ系としての「血」の問題に自覚的になり(『割礼告白』、『最後のユダヤ人』)、積極的に宗教的な問題に取り組むようになった。

メシアニズムとは区別された「メシア的なもの」や「亡霊性」を展開する『マルクスの亡霊たち』、伝統宗教への帰依とは異なるかたちで新たな信仰を模索する『信と知』、否定神学的な叙述を脱構築するエルサレム講演「いかに語らずにいられるか」(『プシュケーⅡ』所収)など、後期デリダにはこれからの宗教と哲学のあり方をめぐる重大なメッセージで溢れている。

私がデリダの数多い著作群からたった一冊だけ選ぶとすれば、それはデリダが創世記のいわゆる「アケダー」(イサク献身)を集中的に論じた『死を与える』である。

いったい何度この本を繰り返し読んできただろうか。

すでにページもボロボロで赤線で塗れているが、それらもすべて勲章として感じられるほど貴重な示唆を与えられ続ける、デリダ自身の神論の白眉である。

4、エレミアス『イエスの宣教』

エレミアスはブルトマン以後、「史的イエス」研究において決定的な業績を残した新約聖書学の世界的権威の一人である。

エレミアスの凄さは、徹底的かつ厳密な原典研究を通して、ひたすら「最古層のイエス自身の言葉」を復元しようとする、その目を見張るほどのナザレのイエスへの愛にある。

このため、エレミアスは福音書記者たちがイエスの言葉に付加した「解釈」を可能な限り浮き彫りにし、はっきりと伝承を切り分ける。

当時の原始キリスト教徒たちは、イエスをメシアとして位置付けるためにずいぶんと護教的な解釈を施してきた。

福音書はキリスト教神学の基礎としてその価値は不動のものだが、これによって逆に、生身のイエス自身が本当に伝えたかったことが不透明になったのも事実である。

私たちはエレミアスの本書を読むことで、まだ福音書記者たちの手が介入する前の、「イエス自身の真の思想」の実体を垣間見ることができるだろう。

5、メイヤスー『有限性の後で』

真の戦士は、人跡未踏の壁の向こう側へ至るために、果敢にかつての師匠たちに戦いを挑もうとする。

それがたとえ失敗したとしても、血を流すことによって書かれた書物には哲学を変革するほどのエネルギーが宿るものである。

メイヤスーは本書で、ほとんどあらゆる哲学者に戦いを挑んでいる。

カント、ヘーゲルはもちろん、フッサール、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ドゥルーズに至るまで、彼はけして既成の体系に収まってしまうことなく、死闘を繰り広げる。

フランスにおけるヘーゲル哲学の権威ブルジョワの下で書かれた博士論文『神の不在』に収録されている「亡霊のジレンマ」からも明らかなように、メイヤスーは最初からユダヤ・キリスト教を脱構築するための新たな神論を展開している。

『有限性の後で』に登場する「事実論性の原理」(ハイパーカオス)はメイヤスー的な「絶対者」の異名である。

その教説はナンシーの神論『神的な様々な場』との対応関係とも相まって、非常に興味深いものである。

メイヤスーにせよ、デリダやナンシーにせよ、私たちはカトリック国であるフランスから、このようなキリスト教に対する根本的な刷新の動きが見られ始めているという事実に対して、けして盲目であってはならない。

『有限性の後で』は、これから訪れる2020年代を真に創造的に生きる上での実例を示した点で、すでに現代の古典である。

6、ローゼンツヴァイク『救済の星』

ローゼンツヴァイクはヘーゲル哲学から出発したが(『ヘーゲルと国家』)、シェリングの『啓示の哲学』に重要な示唆を与えられながら本書を執筆した。

その着想を得たのは、第一次世界大戦の塹壕の中だとされている。

哲学と宗教を互いに対立させることなく、相互に協働させた「新しい思考」を生み出そうとしたその鋭意は、今日も彼に特異な相貌を与えているといえるだろう。

本書には「信仰」、「啓示」、「メシア」といったユダヤ・キリスト教にとって重要な問題が徹底的に展開されている。

キリスト教に急接近しつつも、やがてユダヤ教に精神的な居場所を見出したローゼンツヴァイクだが、その思想には伝統宗教の枠組みにけして回収されない独創的な思考の軌跡が随所に見られる。

ゆっくり時間をかけて、真に人生の糧となる書物に向き合いたい人にとって、『救済の星』は永遠の羅針盤になるだろう。

7、ディディ=ユベルマン『ヴィーナスを開く』

美とは何かを考える上で最も重要な著作は言うまでもなくカントの『判断力批判』であるが、本書はカントの議論にもつながる極めて刺激的な芸術論である。

美(ヴィーナス)はなぜ脱がされ、その裸体を切り裂かれねばならないのか。

それはド・マンがそのカント論でも述べたように、美そのものが自己解体の契機を持つからであり、美の没落とその新たな自己生成こそが美の本質だからである。

ディディ=ユベルマンはラカンの「転移」やヴァールブルクの知見を援用しつつ、「至高の残酷さ」を描いたボッティチェッリの名画《ナスタージョ・デリ・オネスティの物語》に隠された秘密に迫ろうとする。

『ニンファ・モデルナ』や『イメージの前で』をはじめ、すでに多くの重要著作が邦訳されているが、いずれも読む者に衝迫を与える刺激的な分析が展開される。

本書は表象文化論の基礎文献の一冊だが、谷川渥の『鏡と皮膚』や『肉体の迷宮』に馴染み深い読者であれば、なおのこと推薦しておきたい。

本書は芸術論としても、ひとつの美論としても傑出した価値を持っている。

8、ブルデュー『ディスタンクシオン』

「あの人はなんとなく品が良さそうだ」

「あの人はきっと素行が悪い」

人はこんなふうに他者に勝手な印象を持ったりするものである。

しかし、この「なんとなく〜な気がする」とか「きっと〜に違いない」といった曖昧な感覚や雰囲気は、実はその人が生まれ育った環境や教育による経験的な判断に基づいているのであり、けして非学問的な「印象」なのではない。

それどころか、ある人が書店に出向いて「どのようなジャンルの本を買うか」(専門書か、小説か、雑誌か、漫画かなど)といった行為から、レストランで相手と「どのような話をするか」といった些細な会話にいたるまで、すべてにその人が属している「ハビトゥス」が現れている、そうブルデューは考える。

初期の『美術愛好』ではいわゆる「美術館消費」の統計から可視化される観客の文化資本が、もう一つの主著『国家貴族』では学歴資本の高さがいかに官僚機構への道をスムーズにするかが、精緻に、かつ執拗なまでに分析される。

ブルデューの思考の核にあるのは、『自己分析』にもあるように、ブルデュー自身の出自に対する苦悩である。

フランスの片田舎に生まれ、ノルマリアンとなる教育過程で様々なカルチャーショックを受けてきたブルデューにとって、その人の持つ「趣味」から読み取れるものは何かといった問題に辿り着くことは、むしろ自然であった。

ブルデューを読むことで、私たちは一般的に「常識」とされているもの、「なんとなく優雅に感じられるようなもの」が、実は社会的な形成物なのだということを構造的に理解することができる。

今後の社会学はブルデュー社会学への批判的な問題設定なくしてはけして成立しえないだろう。

ブルデューの主著である本書は、私たちがこれからの社会を生きていく上で、今も決定的に重要な示唆を与え続けている。

9、ランシエール『不和あるいは了解なき了解』

たとえ君がどれほど善良で理性的な人間を自負していたとしても、人間社会で生きていると必ず何らかの「不和」に巻き込まれる。

それは君自身がすでに何らかの立場、観点、思想に立って他者を判断しているからである。

ランシエールにとって最も根源的な不和は、二人の男が一人の女をめぐって対立するというようなメロドラマ的なレベルにあるのではない。

真の「不和」とは、たとえ相手が正しいと十分に理解していたとしても、立場上、どうしても対立せざるをえないような状況下にいつのまにか巻き込まれている構造的な問題にこそある。

この点で、あらゆる人間は必然的に「政治的」である。

例えば、君がカフェで「ビリー・アイリッシュの音楽は本当にすばらしい」と友人に話したとしよう。

友人はいう、「たしかにすごくいいね」。

だが、その話をたまたま耳にしていた隣の客はどうだろうか。

ある事物に何らかの審美的判断を下すということは、実はつねにすでに「不和」へと巻き込まれる政治的次元へとつながっている。

ある何かを美しいとみなすこと(美学化)は、それを美しいとはみなさない対立者を不可避的に要請してしまう点で、すでに「政治化」なのだ。

ランシエールは現代における政治と美学、そして民主主義について考える上で、決定的に重要な思考を展開したフランス現代思想界の重鎮である。

10、ドゥルーズ『無人島』

最後はやはりドゥルーズで締めよう。

ドゥルーズこそはまさに、深い森の中で迷いながら模索するすべての者に開かれた真の地図である。

とりわけ本書に収録されたトゥルニエ論「無人島の原因と理由」は、ドゥルーズ自身がこれを孤島で書いて投壜通信を試みたのかと思いたくなるほどの、研ぎ澄まされた美しさに溢れている。

実際にはドゥルーズはこの小論で、デリダも考察した「表象」や「起源」の問題をトゥルニエの小説を使って再構成しているのだが、それでもこれを初めて読んだ二十歳の頃の私には鮮烈なイマジネーションをかきたてるに十分だった。

おそらくそれは、ドゥルーズ自身の「文体」の問題が関与している。

デリダは隠喩それ自体を哲学素として応用する点でやはり美文の持ち主だが、ドゥルーズにはデリダとは異なる独特な音楽的リズムがある。

そこに彼が文学的であると評される理由もあるだろう。

ドゥルーズ哲学には様々な読み方が可能であり、それ自体がひとつの「哲学を始めるための最初のプラットホーム」である。

私たちは、この駅からどの見知らぬ街へ向かうこともできるし、あるものと別のものを相互に接続させ、新しい郊外を作ることもできるだろう。

ほぼ全著作が重要だが、とりわけ表象文化論との関係では『襞』を、神とは何かを考える上ではスピノザ・ルネサンスの礎石となった『スピノザと表現の問題』を、思弁的実在論との関連では「カオス」が論じられる『哲学とは何か』をお勧めしておこう。



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