塩を撒いた日。

2日ぶりに家に帰ってきた。
鍵を開けて家に入ってから、コートのポケットに入っていた塩を撒くのを忘れたこと気付く。
扉を開け、塩を撒くためにもう一度外へ出る。
おじさんなら、家に入ってきても嫌じゃないのになと思いつつ、やり直しをするように扉の外で塩を巻いた。

「親戚のとてもお世話になっていた人が亡くなったので、お通夜と告別式と火葬場へ行ったので、昨日一昨日休んでいました。」
飲みの場でそんな話をしたら、相手は、
「へー、若くして亡くなったの?何歳?」と聞いた。
その問いに私は「84歳です。」と答える。
相手は驚いて、「それじゃー…」と続きの言葉がわかるように言った。
私も頷いて「大往生です。」と答えた。

祖父の弟が亡くなった。
関係からいったら近くないし、会社を休んでまで告別式、火葬場まで行くことでもないかもしれない。
けれど、自分の中で存在が大きい人だった。
まさかあの人が亡くなってしまうなんてと思うほどだった。
私が何歳になっても、声をかけて、生き方のいいも悪いも教えてくれる人だった。
いつもカラッとして前向きな人で、人との関わりを大切にしている人だった。
祖父を小さい時に亡くした私にとって、たまに会える祖父の弟は、祖父と過ごした年数よりも長く一緒にいたと思う。

最後をちゃんと見届けないと、最後まで見届けても消化はしきれないけど、自分の中で行かなくてはと思っていた。
通夜、告別式、火葬場、最後までついて行ったけど、亡くなった実感はなく、ひょこっと現れて「帰るぞー」とみんなに声をかけるような気がしていた。

式中、何度か涙が出てきたり、母親が号泣してる背中越しにおじさんが入った棺桶を見て、ただ後ろのほうで唇を噛みながら声に出さないように泣いている自分がいた。
誰かに見られているかもしれない。こんな私を見られているかもしれないが、どうでもいいと思いながら耐えていた。

告別式から移動する時に仲のいい叔父が「順番だから。順番だから。」と言っていた。
順番なのもわかっているのだけど、受け止めることができずいた。

そして、自分がこうして長文を書こうと思うような心が揺れる出来事は、人との別れや死なのかもしれないと今日の帰り道にふと思った。

死は、常に近くにあるものだけど、近くにあることすら忘れてしまう。
忘れかけていた時に訪れる死は、故人のことや、これからの生き方についても考える。
もう会えないのだけど、また会いたいと思ってしまう。
会えるなら会いたい。
もう一度でいいから、話をしたいし、いつものように声をかけてほしい。

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