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ゲームという異世界にアクセスすることについて探る(#2)
Ⅰ.ゲームの世界とプレイヤーの関係をどうとらえるのか
<#1の続き>
読者側の観点から、本は、一方で、実質的に①始点と終点だけを読んで結末を知ることができること、②物語の流れを無視し、任意に自由に本の中の時間=文字・図を辿り、行き来して、自由に本の中の世界にアクセスできるということがあげられます。要するに、限定された空間内では、自在に動くことが可能というように考えることができます。
他方、現段階で考えられる欠点をあげるならば、本は、文字・図が配列されていることを前提として考えを示すならば、文字と言語の関係において読者の言語に対する習熟度と理解度・図の理解力に左右される点があることが欠点になるのではないかというように考えることができます。
現段階で示したこれらの相対する考え方は、「視覚を通じて」ということを前提にしています。読み上げているのであれば、「聴覚を通じて」となりますが、ここでは、「読者」という単独の存在の観点を立てているので、ここでは、前者の「視覚を通じて」に従い、目から情報を得て、脳で解して、脳内補正という形で想像力を膨らませる、イメージすることになるでしょう。しかし、言語と図の理解に対して基礎となる土台を有していなければ、イメージを膨らませることができないか、わかる範囲でイメージするかということになり、本を執筆したものが構築した世界観と全く同じ世界観を読者が構築して理解に至ることができないかもしれません。
そして、そこには、同じ文字と図の配列でありながら、執筆者と読者のイメージから形成された、それぞれ別の2つの世界が生じる可能性が生まれていることを指摘できます。これを解釈の違いと捉えることも可能でありますが、現段階では、あくまでも地形や色の違い、登場人物の体系の違い、すなわち、描画、描写という部分に対する違いが生まれて、結末の見え方に変化を生じさせ、それが本の内容に対する大きな評価の差を生じさせているのだろうとできましょう。少し乱暴ですが、言い換えれば、本の読者は、視覚に頼って情報を自分の中に「とりこんで」、自分の世界観に親近感ある始点と結末を得ている、ということができます。
それでは、動画になるとどうなのか。
<つづく>
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