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ゲームという異世界にアクセスすることについて探る(#3)

Ⅰ.ゲームの世界とプレイヤーの関係をどうとらえるのか 

<#2の続き>

 できるだけ、本の場合と合わせるように見ていきましょう。

 視聴者側の観点に立つと、動画は、一方で、本と同様に、実質的に①始点と終点だけを視聴して結末を知ることができること、②物語の流れを無視し、任意に自由に動画の枠に収められている一枚の切り絵(1フレームの絵、写真というべきか)に自由にアクセスできるという点では同じところがあるという点では、同じで性質のものといえます。最大の特徴は、動きを見ているので文字や言語に要求される理解力を大きく要求されていないという点でしょう。宗教で用いられていた方法をあげれば、日本の宗教観では、地獄絵図、十戒曼荼羅絵図などによる視覚から情報を得るということ、西洋のものをあげれば、宗教画、宗教施設のステンドグラス、つまり、日本と同じく天国と地獄などが、文字と言語の習得が約束されていなかった層の理解に一役買っていたことが類似するポイントでしょう。

 本が想像力に任せるとなるならば、動画は、自分のイメージしていたものと「地位と理解のある者の解釈で作られた」イメージとの相違が強烈な印象を与えて記憶に焼き付かせることを可能にし、同じ動画を見た者たちで一致した価値観を共有できるため、その動画の流れの中では、一応ながら見解の相違が生まれにくいといえます。しかし、動画は、必要な一枚の絵が、我々が視覚認識するための触媒と表現装置(いわゆる、モニター)の規格に合わせて、一定の規格と法則に合わせて切り抜かれており、これが正しい時間の流れ、もしくは、製作者の意図した時間の流れにあわせて、我々の届けられている。言い換えれば、動画は、一秒の中で決められた数が用意された、例えば、「1秒で60コマ」のなかに少しずつ違った一枚の絵を重ね合わせて人間の目に映った際、動きが出るように作られている。そうはいっても、「一枚の絵」を確認するという形であるにせよ、限定された空間内であるにもかかわらず、自在に動くことは、十分に可能であるというところは本と同様といっていいように思われます。

 他方、現段階で考えられる欠点をあげるならば、切り抜かれていない部分、映り込んでいない部分は、どうとらえるべきなのか。


<つづく>


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