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ゲームという異世界にアクセスすることについて探る (#4)

 <#3 つづきです>

 他方、現段階で考えられる欠点をあげるならば、切り抜かれていない部分、映り込んでいない部分は、どうとらえるべきなのかということである。

 ここで、想像力を働かせるものと、素直に区切られて準備された切り抜きを尊重するかどうかで、理解や見解に差が生まれてくるでしょう。すなわち、最終的には、「真実」あるいは「事実」なのか、それとも「虚偽」、「虚構」なのか、と判断する疑問を生み出すことになるでしょう。当然このことは、本においても生じることですが、動画では「視覚体験」、音声が加わっていれば、「聴覚体験」に基づくことになるので、衝撃度や影響度は、本以上の場合が多いと考えられ、結果的一致の見解を得やすい(ここでは、同情とは捉えない)反面、獲得情報の差から事実認識に誤解を生じさせやすい可能性が大きくなると考えられます。

 本稿で先に述べた本のところでは、「『視覚を通じて』に従い、目から情報を得て、脳で解して、脳内補正という形で想像力を膨らませる、イメージすることにな」り、本の中の「言語と図の理解に対」する、執筆者と読者の世界観の一致が課題になるとしています。動画では、製作者の意図している視覚と聴覚について、該当する動画を通じて視聴者側は、すでに体験済みになっており、残りは、画面に映り込んだ視覚と聴覚で接触できていない部分となります。この点については、映っていた部分の情報を参考に想像を膨らませるより他ありません。その際、映っている画面の枠の中にどう入り込んできたのか、そこまでに至る流れを想像して理解を膨らませるしかないでしょうし、おそらくは、そうなるでしょう。

 例えば、映画のように撮影機、録画装置を使い、そこに入り込んでくるものだけを収録し、ある人物が画面の右側から入り込んできて、画面の左側から出ていったとする。一つの考え方を示すならば、画面の枠外では、全く違う格好と動きをしており、画面に入る瞬間だけ枠の外側で着替えて画面の中だけで演技する。そして、画面の外では、製作スタッフや控えの出演俳優たちが準備していたりしているから、全く違う風景がある、と言ってしまうかもしれない。「だから、しょせん虚実の制作物でしかなく、フェイクなんだ」、そういって批判する者や自称評論家がいるかもしれない。

 しかし、そういうものなのでしょうか。

 もう一つの考え方を示すならば、製作者は、自身の構築した世界の理解と解釈を伝えるに必要と思われる枠を切り取るために必要な「空気」、「空間」、「音」、「時間」を作り上げて、画面の枠に収める範囲外の「空気」、「空間」、「音」、「時間」のうちの一部を、製作者が最もその状況を伝えることのできると考える視覚情報の範囲を切り取るかたちで撮影して動画として提供いるのだと考えることができます。

<つづく>

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