障がい者福祉のあり方と「感謝してなくて生意気」を混ぜて議論するな
Twitter(X)の鍵垢で垂れ流した自分のお気持ちツイートの転載。文法的におかしいところ見にくい所は修正してます。
とまあここまでが私が鍵垢で垂れ流した主張なわけですが。
そもそもあなた達はいつから「社会を支える強者」になったのかと問いたい。
あなた達は本当に社会の維持に必要不可欠なのか。
あなた達の生命も様々な福祉制度に支えられているけども、そしてあなた達は様々な消費活動を行って娯楽等に有限な地球のリソースを浪費しているわけだけども、それらを厳密に計算したとして(それは現状の経済学では恐らく不可能だけども)、あなたが「社会にとって負担ではない」とする根拠がどこにあるのか。
我々の営む産業の多くはもはや生きるために必要のないものです。
サービス産業は言わずもがな、食料生産や自動車製造のようなものであっても、例えば美味や美観やブランド等を重視して必要以上のコストをかけてます。
それを維持するためだけの労働に従事する人はこの社会に必要でしょうか。私達は、社会の構成員のほぼ全てが生存に必要な労働に従事しなくても良くなるほど、あまりにも豊かになりました。
一方で、私達が「当たり前」に生命を享受するために多大な労力が投じられています。
例えば医療に関しては、医者にせよそれ以外の医療従事者の方にせよ、過酷な労働環境かつそれにしては少ない賃金で、高度な知識を用いた職務に従事されています。人命のために。
そして、医療システムに与りながら、それをペイできるほど税や保険料を納められるような大きな価値のある仕事をしていない人もいれば、親から受け継いだ土地や金を転がしてるだけのボンボンもいるでしょう。
健常者は全員同じ価値なのか?無論そんなことはない。
プラスもいればマイナスもいるでしょう。
また、この社会を実現するために、私達の先祖であるところの弱者たちは多くの血を流しました。
私達の先祖は(ほとんどの場合)かつて農奴であり、武士や貴族とは異なる生物でした。
少なくとも、場合によっては一方的に斬り捨てられるような存在でした。
それが、人権という発明によってある時代から覆り始めました。
そして、私達のいる所まで無事「人間」の概念がやってきました。
私達は本質的には、障がい者と同じ弱者です。
自分の存在と幸福を、「感謝すべき強者からの施し」ではなく「全ての人に与えられる当然の権利」にすることを訴えて、今ここで豊かさを手にしています。
そんな中で、車椅子の人間が好きな席で映画を見れないことを嘆くという、たったそれだけのことにどうしてそこまで目くじらを立てるのか?
無論、その社会を維持するための負担も、全員が配慮すべきことです。
危険な場所で車椅子を運ぶような負担を従業員に強いてはいけない。
しかし一方で私達も、低賃金の介護従事者や過酷な労働環境の医療従事者、教育関係者、高齢の農林漁業従事者、その他がいなければ生活できません。
そしてそれら従事者に対して蔑視や軽視や不平不満、敵意を向ける健常者は少なくありません。
特にそういう振る舞いをする人たちに問いたい。
あなた達が、過去現在の社会を構築する人たちを自分と同じ「健常者」として括って、障がい者の前にラインを引く理由はなんですか?
障がい者の方々が要求しているのは、生命活動に必須なものであったり、あるいは健常者が普段当たり前に享受するものです。
あなたも、映画館に行くならば、税金で維持した健康な肉体と、税金で作った治安の良い交通インフラを使い、映画館に着けば税金で学んだ言語によって映画を消費します。
映画館であなたが受付に渡した「日本円」という紙切れや金属の欠片、あるいは単なる電子データが、紙切れや金属片や数字の羅列ではなく何らかの対価として認識されるのも、経済システムを維持するための学問や国の信用を高度な人材が支えているからです。
私は、サービスを要求する障がい者の方と、それを批判する健常者の間に、大きな差異があるとは思えません。
私達は何かに支えられなければ生きていけません。
現代において大半の人は、支える側である場合より、支えられる側である場合の方が多い。
少なくとも、そうすることでここまで豊かな社会を実現しました。
この社会においては、私達も弱者です。圧倒的かつ、絶対的に。
であれば、眼の前の、自分から見て相対的な弱者に対しても優しくあるべきです。
違うのでしょうか。
あなたより優れた人間が提供する何かは「あって当然」のもの、それどころか自分たちを含めた「健常者」という集団の功績とし、一方で多数派と見做されない階層の人間は分離し、「少数派への支援は当然ではない」「あなた達がサービスを当然と思うのは傲慢だ」とする。
それを、一般的には『差別』と呼びます。
現実問題としてどこまでのサービスを提供すべきなのか、それが可能なのかというのはお互いに話し合って納得する必要があります。
そして少なくとも、建設や福祉のプロではない野次馬が一方に罵声を浴びせることはそれに貢献はしません。
SNSで義憤に駆られる前に、最低限の倫理観を身につけてください。
終
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