見出し画像

民主主義が抱える解消できないジレンマについて(御田寺圭「ブリッジ」第19回「揺るぎない民主主義のジレンマ」/ 「熱風」2023年6月号[読書memo])

文筆家の御田寺圭民による「熱風」誌の連載。

冒頭、4月15日に和歌山市内での岸田首相襲撃事件に触れ、“民主主義のプロセス”を破壊しかねない暴力行為を目の当たりにして「耐えがたいほどの絶望を感じる人が一定数存在」すると指摘。

なにに対しての“絶望”かと言えば、「『テロリズム』という民主主義や自由主義社会に対する決死の抗議行動でさえも、もはや現代の日本社会ではほとんど相手にされないどころか、むしろ民主主義や自由主義の『すばらしさ』を改めてひろく再認識するためのダシになってしまう状況が否定しがたく完成しているということ」に対するものだとしている。

これはつまり、「暴力はダメ」「それに立ち向かう民主主義はすばらしい!」という単純化された理論が強固になっていくことを意味し、御田寺氏はそこに警鐘を鳴らそうとしている。

民主主義の理解が浅かったボクは、この指摘の向いている方向が掴めずに戸惑いながら読み進めたのだが、次章で「欧米の先進社会でしばしば暴動が起こる」理由の説明を読んで、ようやくその意図するところがジンワリと見えてきた。

その説明とはこうだ。

欧米の暴動を起こすのに“先進”とされる人々は、「民主主義であると同時に、いやそれ以上に自由主義社であるという自認があるからこそ、そんなふるまいができるのだ。民主主義を愛しながら、しかし民主主義に対して殴りかかり火炎瓶を投げたりする行為は無矛盾に両立するのである」と。

要するに、多数決でルールを決め、それを遵守することで秩序を保つことを命題としているが、それ以前に自由であることを優先させる思想に基づいて生きている、ということになる。

そして、御田寺氏は言う。日本は違う、と。

欧米社会が自由主義と民主主義の緊張的な同居関係を持っているのに対し、日本は民主主義と権威主義が二人三脚で同居しているというのだ。

こうした構造を生む原因が 「戦後の日本にとっては「民主主義の対抗勢力」に対して屈さずに毅然とした態度をとることは、比喩でなく存亡にかかわる問題だったから」としていて、なるほど腑に落ちるところがあった。

実はこの状態はアジア全搬、アフリカ、いや、自由主義を飛び越えて民主主義を与えられだ欧米以外の国々"では潜在的な構造であり、 今年になっても届く権威主義的行動がむき出しになったニュースの数々の裏には、それらが起こるべくして起きたことを読み解くヒントがこの"権威主義との二人三脚論"にあったことに考えが至ったわけなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?