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アニメ映画「海がきこえる」がウェルメイドな作品だということに関して [読書memo]

「熱風」2023年3月に連載されている「薪を運ぶ人」に、「青春ものとしてはウェルメイドな作品である」という一文があった。

この連載は、フリーライターの柳橋閑氏がスタジオジブリの関係者を取材して、スタジオジブリという文化がどのような環境で、どのような人々の関わりによって生み出されたのかをひもとくための“アナザーストーリー”とも言うべき埋もれがちな歴史を書き留めておく貴重な証言となっていて、毎回読み応えがある。

第14回を迎えたこの号では、数回目となる映画プロデューサーの高橋望氏を取り上げているうちのひとつなのだが、そこに出てきたのが“ウェルメイド”というキーワードだった。

ウェルメイドとは、言葉どおりに訳すと出来が良い、だ。

これが演劇の世界では、「脚本や作品の構成が巧みで、物語の展開を楽しむような、論理的な印象の演劇を意味する」ことになる。

しかし、理路整然として、エンディングではすべての辻褄を合わせてしまう演劇は意外性に乏しくおもしろくないという意見もあり、ウェルメイドには賛否が混在しているとも言える。

「薪を運ぶ人」でウェルメイドと評されているのは「海がきこえる」で、現代の若者たちの実像を「平熱で淡々と」描くために、あえてわかりやすいカタルシスを用いず、キャラクターの行動も煮えきらないままで描いた、というのだ。

「海がきこえる」は、高橋望氏が初めてプロデュースした作品で、原作は氷室冴子が1990年から92年にかけて雑誌「アニメージュ」に連載していたものをアニメ化したものだ。

制作は中心メンバーが30歳前後と、スタジオジブリとしては異例の体制で進められ、テレビアニメとして発表されることもまた異例だったという。

本編72分を作画期間3ヵ月で仕上げるというハードなスケジュールの内情はてんやわんやで、結局は放送予定を春休みからゴールデンウィークに延ばしていたりする。

そして最大の出来事があったのは、スタジオジブリの社内で初号試写が行なわれたときだった。

観終わった宮﨑駿氏が「効果音がよくない」と言い残しただけで立ち去ってしまったというのだ。

高橋望氏はそれを「やっぱり内容、お話が気に入らなかったんでしょうね。クオリティはちゃんとしていたので、そういう意味での批判はなかったと思うんです。アニメーションとしての出来は悪くない。でも、物語や人物像には納得がいかない。そういうことだったんじゃないか」と受け取る。

一方で鈴木敏夫氏は、「自分には作れないタイプの作品」で、ライバルが出現したと捉えていたとし、監督の望月智充氏を含めた若手制作陣に対して、明らかに「怒っていた」という見解を示している。

宮﨑駿氏のアニメーションは「“かくあるべし”という理想を描くもの」で、それに対して「海がきこえる」は「登場人物が“かくある”という等身大の姿を描いていったことに原因があった」というのだ。この「“かくある”という等身大の姿を描く手法は「海がきこえる」が嚆矢で、以降のアニメの主流となっているという分析だ。

つまり、元々アニメは教養主義的であったのに、自然主義に転換した影響で生まれたのが「海がきこえる」である、と。

ちなみに、ありのままの姿を描く代表的なアニメーションの代表が「タッチ」であるというのはなるほどと頷ける。

宮﨑駿作品は教養主義的であり、「ビルドゥングスロマン(さまざまな経験を通して主人公が成長し、自己形成していく物語である」ことと比較することで、「海がきこえる」の立ち位置と、ウェルメイドと言われたことがよく理解できたわけである。

この2つの系譜についてはさらに、「日本映画には二つの流れがあるというか、黒澤明の『七人の侍』的なものと、小津安二郎の『東京物語』的なもの。(中略)前者は理想主義で、英雄の生き様をかっこよく描く。後者はリアリズムで、庶民の日常生活を淡々と描く」と言及。

望月智充氏が小津安二郎ファンで、「海がきこえる」でもラストシーンのワンショットを除いて小津の代名詞でもある固定カメラで撮っていることを明かしている。

宮﨑駿監督の新作「君たちはどう生きるか」が黒澤明の「羅生門」の構成に準じているという映画評があったことを思い出し、なるほど手法のみならず主義についても一貫したものがあるからこそ、監督は作品を完成させることができるのだと腑に落ちた次第。

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