砂になったのは、私か。
TPAM2020フリンジ参加作品 IDIOTSAVANT×Belloo Creative『砂の家-House in the Dunes』終演。
初の関東出演、異国の地で、異国の人達と。
うーーん、つらかった。笑
終わった今、涙が出てくる。これはつらかった記憶のためか、終わった事への安堵か、一種の感慨深さか、それとも寂しさか。
98%くらいの確率で、「やっと終わった…!」と思う。心から。正直終わってくれて嬉しい。
残り2%がかき乱す。ぐちゃぐちゃで、なにがなんだかわからないような激情がうねってはしゃいでいる。
アングラだったんだ。たぶん。
完全に未知との遭遇だった。「私今これ芝居してるの?」ってめちゃくちゃ思った。
『そもそも芝居ってなに?』とかいう一番避けてきた疑問にぶつかって、その絶大さに呑まれたらおそらく止まってしまうとわかったから、考えないようにした。
私は止まってしまうと答えが見つかるまで動けない。それは時と場合を選ばないし、私はそのことをもう何年も前から繰り返しているからわかっている。
なんだろうな、「芝居やりたくねーな」って初めて思った。漠然とそう思ったけど、冷静にたぶん向いてないんだろうなって。まぁそれは薄々前から気づいてる。
突き詰めることが苦手でだいたい感情論で動いちゃうし、人間関係の構築はあまり上手くないし、世渡り上手とも到底言えない。それに才能があるわけでも無いと思う。おそらくこの世界での必要事項がほぼ完璧に全て欠落してる。いやー向いてない。
でもそれだけ欠落してて、毎回、全部大嫌いだと思いながらも、やっていると幸せだし大好きだから続けているし、続けるし、続けたいと思う。
私は明日からもオーディションを受け続ける。
今回はいつにも増して、自分の勉強不足と世間知らずさをひしひしと感じた舞台だった。
これほど『総合芸術である演劇』を初めて感じた。
社会情勢も語学も身体論も呼吸法も鍼灸も建物の造りもいろんな衣装の着方も演劇論も歴史も色んなことを知っていないとだめなんだ。勉強しないとだめなんだ。
頭ではわかっていたように思うけど、身にしみて感じた。
それが出来ていなかったから、私はセリフを削られたし、立ってセリフを言えることはなかったし、もちろん演出上の都合もあるんだろうけど、「あ、降ろされた」と思った。
『降ろされる』のはその舞台に立てなくなることだけじゃないと知る。
実際に役を降ろされ立てなくなることの方がまだ楽だと思う。
本来自分から発せられるはずだった言葉たちが他人の口から発せられる時のなんとも言えない苦痛、音として生まれない事への謝罪と自責の念。あれだけ泣いたのはいつぶりだろうな。
心を殺して稽古をしていたように思う。
私は稽古場で演技以外では泣きたくないし、出来ることなら打ち上げとか飲み会でも泣きたくない。
気を抜くといつでも泣きそうだった。
自分を鼓舞しながらマイナスの感情は一切感じないように、心を殺して、過ごしていた。
多くのことに対して、これは甘えなのか、ジェネレーションギャップなのか、単に相手との考え方が合わないのか、もう何もわからない、みたいなことが多かった。いやほんと、わからない。笑
頭が硬いが故に柔軟に物事を考えるのが苦手だからこそ、今回の座組はずいぶん居心地が悪かった。同年代が多かった分話し相手が多かったのはすごく嬉しかったし楽しかったけど。
人付き合い、上手くなりたいな、と改めて痛感。
次みんなに会うときは、もっと色んな事を知っていたい。ほんとに色んな事を。
当分会いたくないけど、でも会えない寂しさを感じるくらいには愛着を持てる関係だったのも事実で、仕事では会いたくないけどご飯食べに行きましょ笑
悔しさと情けなさと悲しさと怒りと諦めとやる気と謝罪と自己嫌悪と自責の念と疑心とに悶える。
2%、これからの自分への期待。
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