酒飲みの浅薄さについて〜ストゼロ考〜

酒は飲んでも飲まれるな
しかし過剰な我慢も毒だ
いやもう臆せず好きに飲まれよ
ああ、鯨飲の果てに死ね

とは昔からよく言ったモンだが(後半3行は私の独り言)、酒はロクでもない。

人と人との深度あるコミュニケーションを喚起する為のなくてはならない聖水魔水気狂い水として太古の昔より人類発展に寄与してきた酒というものは実に呪われた代物である。呪われている。多くの麻薬は法で規制されても、酒は禁じられることがない。禁酒法なる時代も存在したが、わずか一時期で潰え、一部の宗派的伝統を除いて世界に禁酒文化が定着することはなかった。人はどうしても“酒の力”を求めた。人と飲む酒というのは素晴らしい。大好きな時間だ。しかしながら、「濃くて深い」と感じているコミュニケーションは本当に「濃くて深くて密度ある」と言えるのか?いやむしろ、ありきたりな酔いのパターンにのみ依拠し、それ以上先が望遠不能になってしまっているのでは???というアホの疑問を今回は書き残す。


この私も、10代後半の頃より“酒の力”を盲信し、頼り、聖像を崇めるがごとく愛し、とりわけ孤独を恐れる私は“酒の場”には異常な執念を持ち、未開民族のジジイがムラの年中儀礼に抱くような厚い信頼を寄せてきた。
なんでっつったって、その場がとてつもなく心地いいからだ。大して仲良くもない人間からはムダ口を引き出し、また平時小心者の私は酔狂の勢いを利用しテキトーなことを言っては何か反応を頂戴しイイ気になり、挙句デカイ口を叩き、しかし相手も気がデカくなっている為に「野暮なデカさ」で結託し、さらに気持ち良くなってもう一杯…と言った酔いのパターンが身体に染み付いてしまっている。
付き合いの長い友達はその“場”で相性の良さを感じ今に至っているということもあり、その恩恵を否定したら嘘になる。
しかし酒の席で初めて仲良くなったような相手はシラフの現場においてはいささか居心地の悪さというかよそよそしさのようなモノを感じることもあるっちゃある。なんというか、ある種の乖離に戸惑う。そんな当惑の果て「とりあ飲みいきましょうやw」などと手っ取り早く誘い、安居酒屋もしくは公園でコンビニの缶チューハイを飲み、イイ気になり、二軒目三軒目と渡り歩き、路上で歌い、時として意識を消失し、挙げ句の果てに翌朝「昨日は調子乗りすぎたわゴメン、てかオレの財布知らない…?」なぞいう醜態を後悔した日々も数えきれない。

ただ同じ方向性に堕ちることの反復。「ぶっ飛んだ」つもりのカタルシスは実はしょうもないもので、本当は何処にも「ぶっ飛べて」などいないのかもしれない。

いわゆる下戸の人、とりわけ下戸を貫く人は独特のアツい矜恃、そして鋭い視点をもっている。「酒ありき」とは異なるベクトルの深さを持っている。それは「高さ」と言い換えられるかもしれない。例えば、と繋げるのはヘンだが、私はロバート秋山が好きだ。彼のモノマネやなりきり芸はもちろんのこと、何気ない効果音やラジオや天気予報のフリー音源への視点の持ち方、また人間のパターンを誇張したネタの見せ方が好きでたまらない。
最近知ったのだが、秋山は酒もタバコもやらないらしい。だから、ということもないのだが、「ああ、酒の場を、そして男が敢えて男らしく振る舞うダセェ現場を俯瞰的に視てた人の目の付け所っぽいな、なんとなく…」などという感想を仄かに抱いた。
まあ置いといて、とにかく酒は同じ方向性しか与えない。最近再会した旧友と泥酔してふと思ったこと。


ストゼロと題してしまったので、ストロングゼロについて幾らか述べないと。悲しい。ストロングゼロなる飲料は、上に挙げたような“安い酔狂で「ぶっ飛んでると錯覚している」ことすら忘れるくらいにインスタントに“酔えて”しまうダサい飲み物”の代表格であると再認識する。自分の過去のインスタストーリーを振り返る。“ぶっ飛んでる己”を多くの知り合いに見せつけたがるダセェ酔っぱらい自意識を恥じるとともに、シラフの時見返せば、まるで敗戦国の焦土を眺めた時のような哀しみが込み上げる。何の哀しさだろう。酒。こんなモノを媒介にして人生が“善く”なるわけなかろう、、いやでも瞬間に耽溺することこそ人生を楽しむ術だとかデケェ口叩いちゃったし、、とにかく悲しいんだよ、、“推し”がどうたら言って金を貢ぎまくる愚かなホスト狂を、またアニメにしか発情しない秋葉原のオタクを、彼らを嘲笑する資格が俺にはあるのか、、でもまあ好きなロックスターが酒をラッパする様はカッコいいしたまにはマネこいてもいいじゃない???ああ、余計に恥ずかしい!!!!

と、酔いから目覚めた朝はマジでしょうもない。刹那的なるモノゴトが美しいとはよく言うが、人生をセツナのみでこなしきるのは残念ながら不可能だ。刹那が途切れることなく続いたうえ無惨にも築き上げられてしまう、現実生活と呼ばれるモサついた時間の連続があるのみだ。就活、そしてその後何十年にわたる労働生活、いつ訪れるかも判らぬ大病罹患、そして死……………。
とまでに、ストロングゼロを飲みすぎた翌朝は落ち込んでしまう。酔っている間に描いた夢想や共に飲んだ人間との瞬間的交感は目覚めと同時に、己のちっぽけなこの物質としてのカラダに押し戻される。夢は夢であったと気づく。二日酔いの内臓は息も絶え絶えにそれでも膨張収縮をつづけ、皮脂と髪の毛が無残にもシーツにこびりつく。
悲しみ、悲しみ、悲しみの肉体。



2023/05/10
悲しいから、飲みに行こうか


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