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ジュ/ディ/マ/リ


ジュディマリが好きだ。
ジュディマリという愛称はじつにステキだ。
ジュディマリという語を発した者同士、一発で打ち解け合える気がする。
ジュディマリってなんだ。


「ジュディマリのそばかすってイイよね」
「ジュディマリのLOVER SOUL聴いてると元カレ思い出して泣いちゃうわー」
「居酒屋の有線でたまに流れるジュディマリのオーバードライブ、あれマジでグッときちゃうんだよね〜」・・・


上のような感慨を俺は何度も抱いてきたし、この手の会話なんか、ニッポン全国津々浦々の飲み屋、職場休憩中の雑談、また不倫相手との電話口やらで日々繰り返されていることだろう。
ちなみに俺がジュディマリをよく聴くようになったのは2018年の夏頃で、それまでは大して聴き込んでもいなかった。「YUKIの若作りはとにかく成功を収め続けてるよなぁ(笑)」(悪しきルッキズム) だとか友達と言い合う程度だった。でもまあ今日はジュディマリの音楽性がどうってことを言いたいわけじゃない。

愛称。色んな愛称ってもんに思いを馳せるうちに、“ジュディマリ”をたまたま拾っただけだ。いやー、愛称というのは何というか、リアルだ。親が子につけた名前、結成時につけたグループ名とは離れたところで発話され、聞かれ、伝達されていく。当初の“理念”や“理想”の込められたある種の「ファーストネーム」とはかけ離れた形で、生きて、愛され、また時として憎まれる。

ものの響きは、視覚や匂いとともに過去を反復する。大きな話、時代をハンエーするのは勿論のこと、遠ざかった過去の時代感覚みたいなもの(律動、狂騒、焦燥、バイブス?笑)の欠片を現在の我々のもとに呼び起こしてくれる。耳ザワりのいい語感はそれ自体で人々に親しまれるし、それに素晴らしい内容が伴っていれば最高だ。

ジュディマリのユキ、ブランキーのベンジー 、ブリグリのトミー…etc 90年代を生きた若者の、どこかザクザクしたような心境の表徴であるかのような語感。カッコいい。
90年代をリアルに生きていない俺であっても、当時の曲を聴き、その知識を友達や大人と共有して、そして一緒に聴き、また調べたり…なんぞしているうちに、その時代感覚、当時の、いわば「身体性」ってヤツ?が身についたりつかなかったりする。おもしれー笑


まあ結局、主に音楽と、それを取り巻く文化や記憶にはイイ意味での血なまぐささが伴ってて、大好きなんだ。


2023/04/18

寒暖差乙。皆さまもどうか体に気をつけて。

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