深夜音楽妄言〜雨が踊るバス・ストップ〜

どうしようもないから音楽を聴く。「〇〇成し遂げてやったぜ!」とみなぎる虚栄心を増幅させたくて音楽を聴くし、クソほど退屈だからとまた音楽の海へ身を任す。本当に任せっきりだ、音楽にはいつも。
まあ当然ながら、散歩には欠かせないわけで。(いつも散歩の感想ばっかりだな笑)
この街にはこの曲の記憶がこびりついていて…などというシミったれた感傷を求め、またその先の爆発的な精神的興奮を自発的に得ようとして、失敗する。エモイイは、つくれない。
感傷の爆発。感情ではなく、感傷の拡大体験。感覚機能に呼び起こされる圧倒的郷愁というか、恍惚的感傷というべきか、あれだ、サウダーヂってやつ。音楽的効果により「過去でも未来でもない、ここではないどこかへの憧憬」が目の前の景色と混然一体になって蠢き出し、一旦グチャグチャになった烈しさに再び音楽的下地による調和がもたらされ、ただ只管燦然と煌く、あの美しい感覚。音楽によって破壊され、音楽で再構築、いや“再建築”されるような運動的感覚。それは自分の身体と外部環境のコンディション次第で起こる偶然の賜物で、求めれば起こるというわけでは無い。まあ簡単に言えば、“ランナーズハイ”みたいなもんだ。自発的にエモを捕らえにいこうなどというのは甚だ傲慢だと知りつつも、その一瞬の偶発事に賭けようと何度でも散歩へ出てしまう。やってる事、シャブ中と同じじゃねーか笑



悲しい時にしっかり悲しい曲を聴けるひとをリスペクトしてしまう。
往々にして、人は〈喪失〉に意味を持たせようと音楽を聴く。喪失とは何だ。異性にフラれちまうとかいう情けない喪失、長らく続いていた友情の破綻、そしてそれらとは比べようも無く大きい、親しい存在の死。
喪失が意味など持つわけがないが、(いや、持つわけなどない、などと言い切って良いはずがない、しかし明確な意味を持たせることもまた、おそろしい)喪失が喪失であり続けられる場を与えることが大事なのではないか、などと勝手に考えていた。その手段は人によって異なるわけで、当然音楽など全くもって聞かない人もいるんだけども、音楽ってのは多くの人にとって特別なものだ。
悲しい時に悲しい曲を聴くってのは、俺には割と難しい。むしろ馬鹿みたいに明るい曲ばかり聴いてしまう。なんだろ、例えばABBAのダンシング・クイーンとか。“You are the dancing queen♪, young and sweet ♪,only seventeen♪ ”などという歌詞が“喪”に相応しいかと聞かれて素直に頷けるわけがない。大塚愛のさくらんぼを、TM Revolutionのホットリミットを、葬式の帰りの車で聞く人間がいるだろうか。まあいるかもしれないけど。(笑)
うーん。悲しい曲を聞けないんじゃなくて、悲しさに、喪失そのものに向き合うことを放棄しているんじゃないのかな、ある種の逃避癖とでも。言い方を変えれば、記憶の奥底に抑え込んでしまおうという、一見マジメにも捉えられる神経質な性向だと主張することだって出来る。どうなんだろう。悲劇的喪失をも含んだ全ての現実を、ダンスチューンの圧倒的陽気さでもって白日の下に引き下ろし受け入れる。つまり喪失を悲劇として忘却しようとするのではなく、音楽のもたらす一体感でもってこの身に同化させ、完全なる受容を成し遂げてやろうという、猛烈にポジティブな心構えなんだぜと言ってのけることだって出来なくもない。

いろいろが、矛盾する。悲しい時に“悲しい曲”を聴ける人は、何故それをやれるのか。きっと喪失を忘却しようとせず、喪失がこじ開けた穴に真摯に向き合うタイプなんだろう。こういう言い方をしていいか分からないが、状況に対してマゾヒスティックに応答しようとするタイプ。喪失のみならず何に対しても実直な態度で臨むが、あまりにも深く身を乗り出して“穴”を覗き込んでしまうために、時としてその穴に滑り落ちてしまうような人。人はおもしろい。いろんな人がいて、あー、人の行動や考えてることを考えて此方にもその人の行動が転移したりあー、おもしろい、ガンギマリ27時。(ここで思考中断orz)
そもそも、悲しい曲/そうでない曲、などと端っから分けようとしたこと自体間違いだったのかもと今更気付く。


讃美歌の異常なまでの明るさ

2023/05/23
そろそろ梅雨か、無情エンドレスレイン


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