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土折猪折

 パソコン又はネットの具合が良く無く、調子を見乍書いて居ます。
他の作業も動いて居ません。此方には、資料が有りませんので、自由気儘に、書き連ねます。お気軽に、お読み下されば、幸いです。

 日本書紀、特に景行天皇の巻は、寄せ集めの感が有ります。前後左右が、ひっくり返って居る様に感じます。
 崇神天皇の最後にも、景行天皇の最後にも、ズラズラーッと、子孫が記載されて居ます。此れは、何を意味するのでしょうか。
 名前も、繋がりが有りません。別人なのか、別名なのか、不明です。虚偽の可能性も有ります。たった一度丈出て来て、正式に景行天皇を迎える海磯姫って、誰ですか?やはり、卑弥呼でしょうね。卑弥呼も、誰を出すのか不明です。景行天皇とは初顔合わせ、、川上タケル、土折猪折とは、年中やり合って居るみたいです。卑弥呼を共立したと有りますので、何の仲間では無い様です。
 税金を払わ無いので、征伐に来たとも書いて有ります。元々は、別の所に居たのでしょうか?景行天皇って、熊本から遠征して来たのですよね。狗奴国の人が田川に税の取り立てですか?これは、ナンセンスです。
 結局こう解釈するしか無いのです。父親垂仁天皇の領地の税の取り立てに来たと。川上タケル、土折猪折は、東鯷国から田川に、押し入って来たと。
 川上タケルは、一度だけ会った事が有ると記載されて居ます。
判りましたね。垂仁天皇の初めの皇后の挟穂姫は、子の誉津別尊を塀上に出して、家に閉じ籠り、崇神天皇が、焼き殺したのでした。其れは、一回合ってますわ。
 だから、景行天皇では無く、日本武尊が、土折猪折ー別名崇神天皇を散々に、キット飛ばしたのです。母の恨みです。イクサですから、此位は何処にでもあるでしょう。何故態々記載するのでしょう。其れは、土折猪折が崇神天皇だからです。
 崇神天皇から、武の名を貰ったのです。年は247年頃です。
 場所も場所です。鉱山では在りません。お城の在る場所です。

 白鳥が飛び去ったとの記述が有ります。誉津別尊は、成人する迄口が聞けず、白鳥を見て初めて、発音したのです。
 誰に殺されたのでしょう。娘となっては居ますが、息子です。長男の第二日本武尊の方では無いでしょう。差金は、八重入姫です。祖父の崇神天皇を殺され、憤り、やったのです。景行天皇の2番目の皇后です。
 張政は、良く此処迄、鍛え上げた物です。
 今度は、第二日本武尊の誉津別尊長男が面白く有りません。
 英彦山、香春岳を経由して、峰伝いに、能褒野(上野村)に現れた景行天皇軍を、熱田神宮の伯母の倭姫から、草薙剣を貰い受け、登りましたが、チハヤフル矢に脚を打たれ、清水で冷やしたものの、力尽き、死んで行きました。
 此の時、大きな白猪が面倒を見たと伝わって居ます。
死者千人以上を出した兄弟喧嘩の大イクサも、266年に終了しました。
 取り敢えず、此処迄とします。
 資料が手元に無い状態で記載致しました。名称等は、正確では有りませんが、経緯は、粗正確と考えて居ります。
                                 合掌

 

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