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世界政治同時進行世界史&日本史 鉄剣 2024.3.10

 旧石器時代には、打製石器が使用されて居ました。世界最古の磨製石器は、野尻湖畔から後期旧石器時代の4~3万年前の局部磨製石器が出土して居ます。砂で擦って製作した物です。
 最古の勾玉は、1万年前の物です。石英を擦り付けて、製作したと考えられて居ます。
 古バビロニア地方に、11000年前のジョディグリテペ遺跡が出土しました。此処には、動物が彫り込まれた石柱が出土して居ます。此れも、石英を擦り付けて製作したのでしょうか?其れにしては、大きな物です。鉄器で掘り込んだと勘繰りたくなる程です。
 古バビロニアに居たヒッタイトは、鉄器を使用して居ました。其の前のハッティも鉄器を持って居ました。最近の研究によると、紀元前2200年程前には、鉄器が有った様です。出土した鉄器の原材料は、当地の物では有りません。
 紀元前2000年頃迄には、シュメール人は姿を消して居ます。
 中国の紀元前2000年以前は、女媧、伏犧、黄帝の時代です。
 (紀元前4000年頃迄は、母系社会が続いて居ました。)
 女媧、伏犧のトーテムは、龍です。彼等は、青銅器を持って居ました。
 個人的に、鉄器も持って居たのでは無いでしょうか。鉄器を持って居るので、強かったのでは無いでしょうか。彼等は、倭人だったと書かれて居ます。
 中国の漢字は突然出現して居ます。前段階の模様が見つから無いのです。シュメール人の様に、其の地域に突然出現して居るのです。
 紀元前660年頃(何処から此の年号が出て来るのでしょうか。唐津には紀元前700年代と600年代の二つのお墓が有ります。此れからでしょうか。)
 大物主が、八千矛の国を作ったと記紀に記載されて居ます。確かに、近畿地方は銅鐸文化圏、北九州は銅矛文化圏です。大物主一族に圧倒されて、邪馬台国は、英彦山を始め遠賀川流域を手放したと考えられます。対応策として、ギッタン、座薪で、越に滅ぼされた呉から周王の兄の太伯一族を日本に招いた(熊本県の菊池氏)と考えられます。彼等は、黄帝一族に仕えて居り、鉄器の製造方法を知って居たと思われます。鉄製鏃を沢山製作して居ます。
 楽浪郡や帯方郡を通じて、鉄器や鉄剣を前漢、後漢、魏に納めたと思われます。依って、中国の上級官僚が使用する亀型の摘みが有り人偏の無い委が使用され、字体に特徴の有る鋳造金印が贈呈されて居ると云います。中国皇帝印は象牙製です。
 大物主一族も、火カグツチの時代だと思われますが、鉄製の剣(スサノウノミコトが斬りつけると、刃がこぼれ、天叢雲剣が八岐大蛇の尻尾から出ると記載)を製作して居ます。
 其の後、伊奘諾、伊奘冉が大陸から上陸しました。細矛の千足國(クワシホコノチダルクニ)と呼びました。伊奘冉は、大物主に嫁入りしたと思われます。
 其の後、スサノウノミコトが、大陸若しくは、半島から上陸しました。彼等は、鉄剣を持って居無いので、多勢で大物主に勝利した物と思われます。福岡県田川市宮原金山遺跡近くに玉垣の宮を作りました。清々しいと云ったと云う事で、現在須賀と呼ばれて居ます。八段の丘が現存して居ます。此れが、大国主の国譲りだと、福永晋三氏は云って居ます。
 同氏によると、古事記の真名文(漢字を発音記号として用いて日本語を表記した文)には、大国主命では無く、大物主の娘が神武天皇の皇后となったと有ります。
 其の後、天照大神(男神、天照國照彦天日明櫛玉饒速日尊)が遠賀川の直方市の小野牟田池に上陸しました。空見つ倭の國と呼びました。
 其の後、邇邇芸尊が、上陸しました。
 神武天皇は、邇邇芸尊系統のシキ彦や長髄彦と争い、遠賀川流域を征服しました。
 記紀には、様々な地区名や人名が使用されて居ます。どれとどれが同じなのか、違うのか、迷う事が多々有ります。

後日記
 倭面上国の初代天皇は、孝元天皇の子の位置に記載されて居る大彦です。二世紀後半の恒帝霊帝の時代の146年から189年迄の暦年主無し戦争期間中に居た天皇です。

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