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新・後漢・魏・西秦と朝貢 2024.1.3

 前漢第11代元帝皇后王氏一族の王莽
【オウモウ、正式な漢字👉草冠+犬+(升ーノ)】
 第12代成帝の外戚👉第13代哀帝西暦1年崩御👉第14代幼帝の平帝毒殺
 👉西暦8年新設立👉西暦23年9月戦死

 👉劉玄即位更始帝

 👉西暦25年6月劉秀、後漢設立、光武帝として即位、
    都を洛陽に設置、57年崩御

 光武帝紀 中元二年(西暦57年) 倭奴國朝貢(上表文丈の可能性有り)
 👉光武賜以印綬・・・出典:東観漢記?👈十世紀頃散逸

 景初二年238年遼東の公孫淵が反乱を起す。
魏の司馬懿は討伐し、十五歳以上の男子7000人程を成敗した。
 残念では有るが、これでも足りず、此の時、大量に中国農民が新羅地区に流入し、戦国時代、日本の周房に大内氏が入り込んで居る。
 当時の林外務大臣は、中国と大変仲が良い。

6月に卑弥呼から朝貢が有ったとするが、239年であろう。
子孫の司馬炎が武帝となって265年西秦を起す。
 魏は、楽浪郡や帯方郡、太宰府等の都督府から日本製の鉄製武器の供給を受けて、最強の軍隊を持って居る。依って、大変仲が良い。
 500年頃、讃の子嘉系列の満の子の葛子ー牛慈ー武烈天皇は、太宰府の都督府から、大大刀洗地区周辺にあった、夜須野評督になって居ます。

 🟣9世紀出版🟣の後漢記を参考に書いた翰苑
 『安帝永初元年(西暦107年) 倭面上國王師升等獻生口一六十人 願請見』
 👉倭⭕️白上⭕️國🟡主師🟡升等「獻 生口一六十人 願請 見」
     👆申上げ  👆王  👆倭人王名
 ・・との見解が有ります。

 此の世界情勢から判断すると、中元二年の上表文は、
倭奴國が、自国の都合で、朝貢して居ます。
 熊本県にある、松野氏系図には、中国より金印を受領と記載されて居ます。
現在の金印は、糸島半島で農民が見付けたと、ハンターバイデンのパソコンの様な表れ方をして居ます。側面に名が刻まれて居ます。偽物です。
 👉小生の分析では、開化天皇が天火槍(ヒボコ)に攻撃される前に、送付した物です。
 北九州に上陸し、鉄製武器の製造法を獲得し、山陰道を東征して行きました。
 鉄製武器を持た無い、同鐘文化の出雲の東鯷国別名亶州は、成す術がなく、300本以上の銅剣と銅鐘を埋めて避難しました。但馬の国に八千と云う地名が現存して居ます。天火槍軍は港に船を停泊したと風土記に記載されて居ます。
 出雲出身と云われて居る昔氏が作った辰韓からの出陣ですので、港の工事を行って居ます。
 小豆島で製鉄をやって居ましたが、時が経ち、北九州の鉱山(金剛山、香春岳第三峰天香具山)を目掛けて、征西して来ました。

 西暦107年の朝貢所の話では、有りません。
出せるとしたら、邪馬台国か、又は、天火槍一族の支配が一段落したか、但馬国に止まって居たかの、どちらかです。

 中国の書物に、8・90年は男王が支配して居たが、女王(卑弥呼即位年は、初めて古事記に十干十二支法で示され、西暦に直すと198年である。)となり、暦年主無し戦争に突入したと有ります。
 此れは、BC172年から発生した、天皇を殺して発生した、倭国大乱では有りません。
 西暦179年には、火山爆発による飢饉が発生し、農民が、日本人支配の辰韓に移住して居ます。(半島の三国史記記載)
 その頃迄には、半島出身の頭突きで角の有る都怒我阿羅斯等を始めとする、ミマキ一族が多くの地域を支配して居て居ました。
 崇神天皇(在位179−247、68年間)には、生誕日と崩御日が記載されて居ます。日本で育った証拠です。邪馬台国の娘を妻とし、孫娘の豊與ー日本書紀名八坂入姫を設けるには、長い年月が必要です。
 狗奴国(熊本県)では、垂仁天皇在位198ー237年、39年間、第1代日本武尊在位238ー247年、倭姫天皇在位248年(母は四道将軍丹羽道主娘日葉酢姫)が現れて居ます。
 247年には、卑弥呼、第一代日本武尊、崇神天皇を始め千人以上が死亡する大戦闘が発生しました。
 邪馬台国に卑弥呼の246年の要請で黄幢と共に、張政が招かれました。既に径百歩の古墳が有ったと魏志倭人伝に記載されて居ます。
 250年から16年間、16歳の豊與ー壹與が特訓を受け強くなりました。
 266年英彦山、香春岳経由で山頂を征西し、能褒野の出現した豊與軍は、倭姫から熱田神宮に奉納されて居た草薙剣を貰い、能褒野に登って来た第二代日本武尊に、ちはやふる矢を放ち、打ち破るのです。

 古事記では、日本武尊作、其の時の思國歌が、
 ヤマ🟢ト🟢は國のマホロバ たたなづく青垣 山ごもれる やまとしうるわし
と書かれては居ます。万葉集にも載って居ます。 しかし、
 ヤマトのトは、乙のトであり、近畿地方、熊本、鹿児島の物です。土台を示します。
 筑紫の山門のトは、甲音です。出入りを示します。
 つまり、福岡県田川市辺りに住んで居た開化天皇系列の挟穂姫の孫である、第二代日本武尊の辞世の句では有りません。
 日本書紀にある物が正解です。
 266年張政を楽浪郡経由で、265年設立の西秦の首都洛陽迄送り、武帝の司馬炎に面会後、上海近郊の東シナ海の沿岸で、豊與(邪馬台国出身、日本書紀名八坂入媛)が詠んだ物です。現在でも、詠んだ地名の位置が不明です。

 卑弥呼は誰でしょう?
 モモソ姫ー崇神天皇の関係者です。流石に生存は無理です。
 オオタタネコー流行病は確かに止めました。
 アカル姫ー国東半島東の姫島?
 邪馬台国の未知の女帝

 墓は、何処に在るのでしょうか?
 香春岳と英彦山の間の前方後円墳ー径百歩では?
 鹿児島県指宿市の山川遺跡ー多数の人骨出土
 その他

 英彦山に居た大物主神は誰でしょうか。小さな白蛇となって、英彦山に帰ったのでしょう?
 山伏ートーテムは蛇
 新羅王様
 崇神系列の人
 事代主系統の人ートーテムは蛇
 徐福系統の人ートーテムは蛇
 遠賀湾物部氏ートーテムは蛇

 土折猪折を斬り、太刀洗井戸で洗ったのは誰でしょう?
 第一代日本武尊⭕️
 景行天皇

 香春岳で卑弥呼が、仁義を尽くして、明け渡した相手は誰でしょう。
 第一代日本武尊
 景行天皇⭕️


 



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