見出し画像

国際政治同時進行世界史&日本史 神武垂仁継体天武 2024.3.13

 やはり、記載されて居ました。
 解説をやり直しましょう。
 日本書紀や古事記(記紀)の記載は、例え話が多用されて居ます。
又、地名や人名が複数出て来ます。同じなのか、異なるのか不明です。
是年とか、○○天皇□□年とか、記載して、堂々と、年代を狂わして有ります。
 断片的に焼残った、元の資料の日本紀や各一族の記録、古墳等の遺跡を、適当にいじって居ます。
 主に国外の資料と付き合わせ無いと、真実の政治の流れが現れて来ません。
 但し、著者等は、倭言葉ー真名の存在を理解して居ませんでした。

 此処では、大きな流れを示す為、細かくは、説明致しません。
 まず、神武天皇、或いは其れ以前について見てみましょう。
 今から3000年程前迄は、縄文時代でした。此時代に生きて居たのは、山津見族、海神族です。寒冷化に伴い、北海道や東北地方の縄文人が南下し出し、又、半島や大陸から弥生人が上陸して来ました。
 縄文人の中心は千葉県市原市、鹿島神宮、香取神宮です。日本全国から縄文土器が出土して居ますので、ヒダカミ国と云う縄文国家が存在して居ました。
 今回は、是以上遡りません。
 鹿島神宮には、武甕槌が十数匹の鬼を退治して新主祭神となり、香取神宮には布都主が居ました。
 彼等は、天照大神の指示に従って、大国主命の国譲りに従ったと記紀には記載されて居ます。
 福永晋三氏によると、スサノウノミコトが南から英彦山を攻め滅ぼしたのを、大国主命の国譲りと記載して居ると解説して居ます。
 日本の昔の神様は、造化三神ー天御中主、高御産巣日ー大物主命、神産霊ー炎帝神農氏、別天津神ーウマシアシカビヒコジー剣と水田耕作持参、天常立神の独り神・・・
 此の他に、九世紀に東大寺僧侶チョウネンが遣唐使として中国に持参した物が有ります。天御中主、天叢雲尊、八重雲・・・
 此処で、高御産霊は、天叢雲です。そう、天の叢雲の剣ー草薙剣ーツムガリの太刀は、天皇の三種の神器の一つです。
 名の音解析をして見ると、一人を除いて、皆、鉄或は青銅の精錬をして居ます。
 大物主命は、八千矛の神ですので、剣を製造して居ました。
 中心に居る天御中主は、719年の隼人族反乱鎮圧の功績により、宇佐神宮の法蓮上人に依り、天照大神娘の瀬織津姫から置き換えられました。
 瀬織津の前は、大物主命系列の八幡姫大神でした。
 大物主命のトーテムは龍です。女媧や伏犧を拝んで居ました。八岐大蛇です。スサノウノミコトが斬り付けると、尻尾から鉄剣が出て来ました。スサノウノミコトの剣は刃こぼれして居ますので、青銅剣です。今でも、北九州市には、八幡製鉄所が在ります。鉱山は、香春三の岳ー天香具山ー豊日別皇后、其の前は、金剛山です。此処では、日本で1箇所だけ、金、銅、鉄が取れます。銅を溶かし、温度を下げる為に鉄鉱石を投入します。誰がやっても、鉄鉱石を目一杯入れれば、製鉄になるでしょう。
 スサノウノミコトは香春一の岳ー畝尾山の東の春原金山遺跡東の鏡の池上部で、大山津見の娘と生活して居ます。ハンチク構造の八重垣を作って居ますので、大物主命の娘では無いでしょうか。其の地は、清々しい事から須賀と云居ます。
 良く判ら無いのは、伊奘諾尊です。伊奘冉尊は、大物主命の妻となって居ます。泣沢目の神となり、天平坂ー金辺川沿いーを下り、尾根傳に英彦山方面に逃亡して居ます。其の後、何処へ行ったのでしょうか。第一、一体誰なのでしょうか。徐福では有りませんか。真名解析では、砂浜の在る、内海に上陸して居ます。
 直ぐ後に、天照大神が、上陸して来ました。天照大神が勝利し、スサノウノミコトだけ、千座の置戸で処置し、一族は、根の高須国ー出雲に天照大神の子のウマシマジが移送させました。
 ウマシマジは、但馬国に留まり、但波道主一族が生まれました。
 230年呉の孫権軍が襲来時、狗奴國から垂仁天皇、子の誉津別尊が追い掛けて来て、上陸を阻止しました。崇神天皇四道将軍の一人の丹羽道主は娘四人を垂仁天皇に嫁がせました。日葉酢姫から、後に伊勢神宮を三重県に定める倭姫天皇や景行天皇が誕生して居ます。
 伊勢神宮は、日本を縦に横切る大断層上に存在して居ます。

 導入部分が長くなってしまいました。此れから、今回の本題に入ります。
 何故、伊勢神宮が祟り神なのかに付いてです。
 天皇として伊勢神宮に参拝したのは、倭姫天皇を除くと、持統天皇と明治天皇ー母は猶太ロスチャイルドの娘ーだけです。
 天照大神と皇后の猶太族の長髄彦の妹を奉る伊勢神宮が最初どこに有ったのかと云う問題です。
 日本書紀では、崇神天皇の時代179年頃に凶作とペスト流行で世が乱れたのは、皇宮内に在る、天照大神と大国魂の力が強過ぎる為だとして、外に出されました。
 天照大神一族では無い姫は病気になり、垂仁天皇時に倭姫に交代しました。
 日本書紀は、神武天皇と天照大神が同じ宝物を持って居たので、同族と確認し、戦闘が収まったと伝えて居ます。そんな事もあるかなと云う感じです。
 次に、神武天皇が、大国主命孫、事代主子の姫を皇后としたと云うのが、理解出来ません。しかも、大国主は、武甕槌と布都主に国譲りを実行させられたのでしょう。神武天皇子の手研耳尊ー天皇ですーは、綏靖天皇に射殺されて居ます。其の後、倭国大乱が始まって居ます。
 大物主命が、神武天皇の軍事力を使って、伊奘諾尊、大国主命、スサノウノミコト、天照大神、邇邇芸尊を追払い、政権を取り戻したとしか、考えられませんでした。
 何故、倭国東朝(当時は存在せず)を襲ったのでしょうか。初めっから、結婚すれば良いでしょうに。おかしいのです。
 此れは、福岡県田川市の春日神社と苅田町の白庭神社の御祭神に、如実に現れて居ます。
 答えは、豊前風土記、萬葉集註釋ー仙覚抄1269年巻第一に、有りました。
 銅鏡を持参した、神武天皇軍は、金の鴉に導かれて、熊野の紀伊ー菊池山雅から、田川市川崎町に来ました。此処で、直ぐに、香春三の岳の金、銅、鉄の鉱山を思い出す冪でした。龍をトーテムとする、八千矛の神ー大物主命が、導いたのです。
 風土記に依ると、神武天皇は、高見産霊12世孫の豊日別命ー弓削、渡会氏遠祖ーに、田川市川崎町の立岩(天磐船は神武天皇軍に拠り二つに割られて居ます。)のシキ彦ー日本書紀の長髄彦かーを討ち果たした後、数十丁東に離れた須賀の宮に居る、伊勢彦を討てと命じました。永く住んで居るとして初め断りましたが、豊日別命の軍備が整って来たら、闘わずして、夜中、アミの港ー北九州市の帝踏石近郊ーから、輝く風の中、三重県伊勢神宮に向かって出港して行きました。詰まる所、四国の阿波(300年代迄)を経由して、(400年代)信濃の諏訪湖周辺に行きました。
 福岡県若宮市磯光に、266年頃倭姫天皇が日本武尊長男に草薙剣を手渡したと云う天照神社が再建されて在ります。
 天照大神と長髄彦の妹が結婚して、天の篭山が誕生して、新潟県の弥彦山周辺を開拓しました。長岡出身の山本五十六は、子孫かも知れません。
 天照大神は、日本書紀が云う同族では無く、大物主命や神武天皇にとって、敵です。従って、倭面上国天皇にとっては、祟り神です。
 勅撰和歌集と古今和歌集真名序に記載の古万葉集第一巻第一歌(大友家持編纂、菅原道真編纂の物は、新万葉集で私選集扱い)は、雄略天皇と在りますが、福永晋三氏に依ると、神武天皇の歌と、大物主命の娘の歌とを、合わせた物だそうです。

 米の収穫前に、伊勢神宮に行くのは、持統天皇にとって、反乱により伊勢神宮近郊に配留された親戚を見舞うと云う意義が有りました。

 664年唐から帰還したサチヤマー大海人ー天武天皇ー多治比シマー天タリシ彦孫に、家を貸与した尾張大隅に対して、716年迄に子の尾張稲置に田が賞与が与えられ、大隈は従五上位贈与されましたが、719年反乱で、大伴旅人が征隼人持節大将軍になり、宇佐神宮の法蓮上人のアドバイスにより1年半後征伐して居ます。
 飢饉や疫病が発生し大隈の祟りと恐れられる。約300年周期の太陽黒点変動の影響でしょう。
 天武天皇系の山上憶良の貧窮問答歌、山部赤人の天智天皇の柿本人麿の歌を慕う様な歌にも現れて居ますが、人民の心が離れて行った様です。
745−752 聖武天皇 福岡県田川で、500tの銅を使用して(奈良の)大仏建立
770年天智天皇第7皇子光仁天皇61歳で即位。
772年井上内親王👉廃皇后、井上内親王45歳で出産した他戸皇太子👉廃皇太子
781年百済出身高野新笠との子の桓武天皇即位
791年延暦十年九月十六日桓武天皇は、越前、丹波、但馬、播磨、美作、備前、阿波、伊予等に福岡県桂川町に在った平城京の門等を解体して、近畿地方京都府長岡京市に移動する様詔勅を発令して居ます。

 📛大宝律令以後、古代豪族が、天下を取る事は無くなります。 📛
 📛平将門の乱以降、武力を持つ武士が台頭して来ます。    📛
 📛歴史を学んで居れば、避けられた物を。          📛

謝意
 殆どの資料は、福永晋三氏のYouTubeに依ります。厚く御礼申し上げます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?