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謎の三世紀1 2022.10.13

 謎の四世紀3に続きます。

 成務天皇即位は295年でした。景行天皇在位は60年間なので、235年の即位です。垂仁天皇天皇在位は39年間であるので、196年即位となります。

 魏志倭人伝によると、238年に邪馬台国の卑弥呼は魏に朝貢を開始して居ます。三国史記には二世紀の卑弥呼の朝貢が記載されては居るが、これは
1回り60年ズレて居ると考えられます。
 熊本県の松野氏系図には、市文鹿も238年朝貢の記載が有ります。二人で朝貢した可能性が有り、此が、魏志倭人伝に記載されて居ます。
 此れから推察出来るのは、235~237年は誉津別尊が在位した可能性が有ります。又、247年火の国の王となって居るので、倭姫の在位は、238〜248年です。
 此処で、238年の市文鹿の朝貢を狗奴国の朝貢とすれば、倭面上国の天皇は誉津別尊であり、在位235年~246年となります。246年が卑弥呼最後の朝貢です。

 魏志倭人伝には男王では、収まらずと有ります。景行天皇でしょう。
 230年には、三国時代の呉孫権軍が、兵士を集めに、壇州出雲に来襲して居る。夷州狗奴国にも当然来たでしょう。垂仁天皇が押し返したのでしょう。半島では、王が崩御し、入れ替わって居ます。

 魏志倭人伝では、卑弥呼の邪馬台国と狗奴国の卑弥弓呼は仲が良く無い様です。此れに該当するのは、狗奴国の垂仁天皇長男で開化天皇子孫の誉津別尊です。十五年結婚の日葉酢媛(三十二年薨去)も開化天皇子孫です。此処に、垂仁天皇の意思を感じます。狭穂彦、狭穂姫兄妹は、上毛野君八綱田に火を付けられて滅ぼされて居ます。母親は赤ん坊の誉津別尊だけを外に出し、誉津別尊は難を逃れました。何故、名に別が付くのでしょうか。此は分家を示します。
 誉津別尊は、大人になって白鳥を見て初めて喋り出したと伝わります。
 日本武尊も白鳥に関する記事が多い。即ち、日本武尊は、誉津別尊です。
 日本書紀では、誉津別尊の名は小さく扱われて居ます。崩御年の記載は有りません。198年生まれとすれば、多分、倭は国マホラマ・・・を歌った266年68歳での薨去だと思われます。(P76)

 P106二十八年条(277)にのぼ野に葬りまつると有るのは、誉津別長男でしょう。福岡県です。P104に年三十と出ています。誉津別尊49歳の子となります。

二十八年が277年なので、景行天皇は、249年即位となります。魏志倭人伝に合致します。

 倭の五王が記載されて居る紀氏系図には、市文鹿が狗奴国王に替わったとの記載が有ります。倭姫は福岡県に有った草薙の剣を管理する熱田神社の神主でした。因って、日本武尊に与えたのです。狗奴国より倭面上国寄りです。
 倭媛は、叔母と記載されて居るので、🟢ノボ野で闘った日本武尊は、誉津別尊の長男(五十迹手ー第二の仲哀天皇の兄、一大卒)🟢です。
 五十迹手の子の忍熊尊が草薙の剣を持って居るのです。

 半島から送られた張政に鍛えられた🟢壱与ー豊ー八坂入媛🟢は強く、誉津別尊(伊都国五十迹手の父親、前方後円墳を全国に建造した物部氏)の不意を突いて、勝利しました。元々仲の良い狗奴国の垂仁天皇系列の🟢景行天皇と266年婚姻🟢をしました。266年に誕生したのが、🟢成務天皇(羽白熊鷲)🟢です。

 P66神夏礒媛が、卑弥呼でしょう。攻撃したのは、狗奴国の日本武尊の誉津別尊でしょう。247年と思われます。日本書紀の立場は、倭面上国であるので、現地伝承とは正反対となって居ます。


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