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世界政治同時進行世界史&日本史 解釈 2024.3.9

 1✖️1=1、
 又、
 (ー1)✖️(ー1)=+1、
 依って、√1=±1
 では、X✖️X=-1 となるXは、何でしょうか?
 此処で、判りませんでは、数学は発展しなかったでしょう。
 先人達は、i なる記号を作り出しました。

 日本史でも、同様です。判りませんや、虚偽記載では、進みません。
 魏略と魏志倭人伝では、日本の記載が異なって居る様です。

 伊奴国や伊都国が違う様なのです。
 壱岐対馬迄は、両文献共、共通です。しかし、壱岐国から海を渡り、千里ー約67kmでマツラ国に着くと有ります。
 魏志倭人伝に於いて、マツラ国を、平戸島や、無理して佐世保に置いても、以下の文章が、成立困難となってしまいます。
 マツラ國の記載の最後に
 ・・・好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之
と有ります。
 此れは、3mの高低差が出来る佐世保湾か、水深最大15mの大村湾か有明海を表記した文章では無いでしょうか?
 
 魏志倭人伝では、東南陸行500里至伊都國 と有ります。

 魏略では、伊都國は、天草市の在る下島です。違って居ます。
マツラ國と伊都国とは、陸続きでは在りません。
 
 東南至奴國百里ー6.7km・・・有二万余戸
長崎半島に2万戸ー8万人も居られるのでしょうか。

 東行至不弥国百里-6.7km
 まさか、有明海に沈没させられませんから、有明海に突き出て居る先端部分の島原市でしょう。

 南至投馬國水行二十日・・・可五万余戸
 真南の鹿児島県出水市でしょうか?
でも、20日も掛かりません。此れは、沖縄か、台湾の事でしょう。可の字が使用されて居ます。19年間も滞在した張政なら見て居る筈なのに、見て居無いのです。沖縄や台湾と活発な交流が有ったと記載したかったのでしょう。

 南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月・・・可七万余戸
 真南に枕崎市、無理して指宿市でしょうか。此処には、沢山の遺体が出土した成川遺跡が在ります。
 水行十日、陸行一月と記載されて居ますので、沖縄や台湾では無く、陸続きの出雲又は、近畿地方の奈良県の事だと考えられます。
 卑弥呼は、198年に共立され、247年頃崩御して居ますので、230年の呉の孫権軍の来襲を知らない筈は、有りません。
 垂仁天皇と誉津別尊が夷州ー狗奴國ー熊本県で、孫権軍を退却させ、壇州ー出雲迄追い掛けて、上陸を阻止して居るのです。
 神武東征では無く、垂仁東征です。誉津別尊は、出雲で拝まれて、喋れる様になったのでしょう。鶴を海迄追い掛けたのでしょう。
 近畿地方の奈良県の纏向遺跡からは、鍬では無く、鋤だけが出て来ます。軍事施設の証拠です。
 だから、奈良で誕生した、崇神天皇の四道将軍で同族の天照大神子孫丹波道主娘日葉酢姫との子の景行天皇が、近畿地方から九州に征西して来るのです。
 苦心惨憺して、神功皇后が卑弥呼だと思わせ、邪馬台国をひた隠しにして来た夢が消え失せました。でも、舎人親王の賢さがヒシヒシと伝わって来ます。
 敗因は、大国主命以降の大物主や倭面上国が、倭言葉を理解して居なかった事です。
 倭言葉参考文献 スサノウノミコトの歌ー日本最古の歌・・宮原盆地の玉垣の宮
 此れは、皇后のオオヤマツミの娘が教育した結果です。現在でも意味不明とされて居ます。
 やくもたつ いつもやへかき つまこみに やへかきつくる そのやへかきを
 更に、天照大神の表現
 空見つ倭の國・・・福岡県田川市です。
 奈良県に、七万戸の都市を建設したと記載したかったのでしょう。チャンと可と入って居ます。
 沢山の国名が記載されて居ます。奈良県迄の間に在った国と思われます。

 やはり、卑弥呼は、トヨの祖母で、崇神天皇妃の、邪馬台国女王の尾張大海媛では無いでしょうか。日本書紀に海礒媛と一度いや、別名を使用して、二度登場して居ます。
 日本の正史を記す日本書紀では、無視する訳に行かず、最小限度の登場に抑えたのでしょう。
 邪馬台国には、始め一人の女性大王が現れ、暫くして、二人続けて女性の大王が現れたと云う文献が存在します。卑弥呼とトヨ(壱譽)が、此の二人でしょう。
 音解析の結果、ヲワリとは、薩摩硫黄島残滓の三島を示し、又、奄美大島と屋久島の間で曲がり太平洋を北上し約百日で北米大陸に達する(堀江謙一氏が実行済)、四国沖と房総沖で渦を巻く事も有る、黒潮も示すと考えられます。

 又、思います。解読するのでは無かったと。



 


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