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世界政治同時進行世界史&日本史 倭王武同定 2024.1.21修正1

 中国への朝貢を紀元前から日本は行って来ました。
此処で問題になるのは、朝貢を出した天皇の名が無いか又は、漢字一文字な事です。日本の天皇には和風諡号と漢風諡号が有りますが、一文字は有りません。

 其処で出て来るのは、朝貢を出した国は、倭面上国又は秦王国では無いのではないかと云う事です。
 紀元前の前漢の漢書地理史には、日本には百余国有り、現在言葉の通じる国は30余国と有ります。西暦57年の朝貢では、倭奴国が出して居ます。倭奴国の場所は今の所不明です。

 数有る朝貢の中でも有名な物に、倭の五王の朝貢(413年~502年)が有ります。
 此朝貢の特異な点は、日本や朝鮮半島の指導権を認めよと云う内容で有る事です。

 日本書紀に、対外戦争を記して有るのは、神功皇后、継体天皇、欽明天皇、敏達天皇、天武天皇の箇所丈です。倭の五王と年代の合うのは、継体天皇です。
 仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇も年代は合い、朝鮮半島とは行き来しては居るのですが、対外戦争について一言も触れては居ません。

 其処で、継体天皇記の内容を見てみましょう。
 継体天皇が朝鮮半島の任那の国の西の四郡を百済に譲渡したと変な記事が載って居ます。
 有り得ない事件です。此れは、何かがおかしいし、狂って居るのです。

 日本書紀(三)巻第十七 男大迹天皇(彦太尊) 継体天皇
 天皇、年五十七歳、八年の冬十二月の己亥(515年)に小泊瀬天皇(武烈天皇)崩りましぬ。👉🟣459年誕生、🟣519年61歳👉🔵530年72歳、で崩御。
 元年(隅田八幡神社人物画像鏡より、🟣494年、天皇即位、35歳。🟢470年狗奴国王着任[11歳]も、示して居ます。)の春正月の辛酉の朔甲子に、大伴金村大連、更にはかりて曰く・・・丙寅に、臣連等を遣して、節を持ちてミコシを備へて、三国に迎へ奉る。・・・留る事二日三夜ありて、遂に発つ。・・・甲申に、天皇、クス葉宮に行至りたまふ。・・・🟡二月の辛卯の朔甲午に、・・・是の日に、🟡即天皇位す。
・・・🟡太歳丁亥
二年(🟢471年)・・・十二月に、南の海中の耽羅人、初めて🟠百済国に通ふ。
三年の春二月に使を百済に遣す。百済本記に云く、クラマチキミ、日本より来ると云ふ。・・・🟠任那の日本県邑に在る、百済の百姓の、逃げたると、ヘタえたるとの、三四世なりたる者をさへ抜き出して、並びに🟠百済に遷して、へに付く。
五年(🟢474年)の冬十月に、都を山背の筒城に遷す。
六年(🟢475年倭王武朝貢)の夏四月の辛酉の朔丙寅に、穂積臣押山を遣して、🟠百済に使せしむ。よりて、筑紫国の🟤馬四十匹を賜ふ。
冬十二月に、🟡百済、使を遣して、調貢る。別に表を奉りて任那国のオコシタリ、オロシタリ、サダ、ムロ、四県を請ふ。(🟢事前の脅迫)・・・
是によりて、使を改めて詔す。賜物併せてミコトの旨を付けて、表に依りて任那四県を賜ふ。・・・
七年(🟢476年)の夏六月に、百済、キミモンクイ将軍・ツリソニ将軍を遣して、穂積臣押山にそへて、五経博士段楊邇を奉る。別に奏して云さく、「ハヘノ国、臣が国の己モンの地をかすみ奪ふ。伏して願くは、天恵ありてことわりたまひて本属にかえしたまへ。」とまうす。
(🟢476年)秋八月の癸未の朔戊申に、百済の太子淳陀みうせぬ。
(🟢476年)冬11月の辛亥の朔乙卯に、ミカドにして、百済のキミモンクイ将軍、新羅のモントクチ、安羅の辛已奚及びホンハワサ、ハエのコデン奚及びチクモンチラを召連ねて、メグミをうけたまわりのりごとす。コモン・タサを以て、百済国に賜ふ。
 (🟢476年)是の月に、ハヘの国、シフキを遣して、タカラを献りて、コモンの地を乞す。しかるに遂に賜らず。
・・・
(🟢477年)八年三月ハヘ、城をシトン、タサに築き満奚に連け、トブヒ、邸閣を置きて、日本に備ふ。また城をニレヒ、マスヒに築きて、マシヨ奚、スイフにわたす。戦人、ツハモノをつどへて、新羅をせむ。・・・戦の様子・・・
(🟢478年)九年の春二月の申戌の朔丁丑に、百済の使者モンクイ将軍等、羅らむとまうす。よりて詔して、物部連をそへて、遣わす。百済本記に云く、物部至至連と云ふ。
(🟢478年)是の月に、サトノセキに到て、つてに、ハヘの人、恨を懐き毒をふくみ、強き事をたのみ さかしまなる事をほしきままにす と聞く。故、物部連、舟師五百を率いて、直ちにタサの江に至る。モンクイ将軍、新羅より去りぬ。
 (🟢478年)夏四月に、物部連、タサの江に留まる事六日。ハヘ師を起こして征きて伐つ。着物をせめ剥ぎて、持てる物を掠み奪ひて、尽に絹幕を焼く。物部連等怖ぢ畏りて逃れね。僅に命をいきて、モンモラに泊まる。
十年の夏五月百済、ゼンボウモクチフマカフハイを遣して、物部連等をコモンにねぎらひて、引きひて国に入る。・・・
(🟢478年)秋九月に、百済、ツリソシ将軍を遣して、物部連にそへてまうき、コモンの地賜る事をかしこまりまうす。別に五経博士漢高安茂を貢りて、博士段楊邇に代へむと請ふ。請すままに代ふ。戊寅に、百済、ヤクマクコ将軍・日本のシナノアヒタを遣して、高麗の使安定等にそへて、まうきて、好を結ぶ。

以下は西暦不明
十二年の春三月の丙辰の朔甲子に、遷りて弟国に都す。
十七年の夏五月に、百済の王武寧(在位502年-523年)みうせぬ。
十八年(朝鮮半島の王はすべて、即年即位)の春正月に、百済の太子明(聖523年-554年)、位に即く。
二十年の秋九月の丁酉の朔己酉に、遷りて磐余の玉穂に都す。一本に云く、七年なりといふ。

(🟢492年)二十一年の夏六月の壬辰の朔甲午に、近江毛野臣、イクサ人六万を率いて、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・トクコトンをかえしたてて、任那に合せむとす。是に、筑紫国造磐井、密かに、そむく事をはかりて、・・・
(🟢493年)二十二年の冬🟡十一月の甲寅の朔甲子に、大将軍物部大連アラカヒ、みづから賊の師磐井と、筑紫の御井郡に交戦す。・・・

 🔴任那四郡は譲渡では無く、国際戦争に敗北して奪取された物と判明しました。🔴
よって
 ⭕️倭王武は、男大迹と判明します。⭕️

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