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生きてきたように死んでゆく

 君たちは、じぃじのことをどのくらい覚えているかな?
 そもそも会っていない末っ子の君は、お仏壇の写真のイメージしかないかもしれないね。

 じぃじは電気設計の仕事をしていて、母さんが物心ついた頃には自宅を事務所として働いていた。
 昼間はテレビを見たり、昼寝をしたりで、ゴロゴロと寝転がって過ごしていた。母さんが小学生の頃は、土曜の昼に学校から帰るとじぃじは大抵テレビで時代劇を見ていた。それを一緒に見ながら、お昼ご飯を食べた。温め直したご飯とお味噌汁、そして時代劇が土曜の昼下がりの定番だった。
 仕事は主に夜にしていた。一日に煙草を何本も吸い、インスタントのコーヒーをひっきりなしに飲みながら、図面台に向かったり設備のカタログを繰りながら電卓をたたいたりしていた。母さんが大学に進学した頃は、経済バブルの絶頂期だった。一人の事務所で下請け仕事をこなしながら、母さんを筆頭に三人の子を地方の大学に進学させたのは、立派なことだったなと思う。

 一番の趣味は剣道だった。小学校の体育館で開かれていた剣友会に参加して、昇段審査を受けつつ鍛錬を重ねていた。母さんも一時は一緒に剣道をしていたし、子どもたちに剣道を教えるじぃじの姿は、何をしている時よりもカッコよかった。

 バブルがはじけて、仕事が徐々に入らなくなっていたんだと思う。じぃじは仕事の合間に、市の剣道連盟の事務の仕事もするようになっていた。
 もともと世話好きで、夏休みには剣友会の子どもたちを連れて、自分の実家がある徳島まで遠征合宿をしたり、お正月には餅つきをしたりしていた。ままちゃんは、じぃじの企画した行事の裏方をこなすことが多かったから、自分の家族の面倒はみないのに、外面ばかりが良くて、とよくこぼしていた。
(そうそう、「ままちゃん」というのは、じぃじが結婚したての頃から使っている呼び名で、夫婦二人で猫を飼っていた時に猫にとってのお母さんというくらいの意味で、ままちゃんと呼ぶようになったそうだ。もちろん母さんは「ままちゃん」とは呼ばなかったけど、孫の君たちには「ままちゃん」って呼ばせてる。面白いね。)
確かにものぐさで家のことはしない人だったけど、いつもおっとりと穏やかで、声を荒げるようなことはほとんどなかった。ままちゃんに言わせると、じぃじがそんなだから、自分が父親の役目までさせられて、いつも口うるさく言わないといけない、ということになるのだけど。
 ともかく、母さんが就職して結婚する頃には、じぃじは剣道に明け暮れていて、七段への昇段審査に向けて毎日素振りなどの鍛練に一層励んでいたらしい。

 それが急に足を悪くして、杖を突いて歩くようになってしまった。一番上の君が生まれた時には、すでに杖を突いていたから、君たちは剣道に打ち込んでいたじぃじを知らないのだなと改めて思う。鍛練のし過ぎだったのか、足を悪くした原因は分からない。ともかくそれは一過性の病気ではなく、脊椎だか何だか神経に関わるもので、わざわざ鹿児島まで評判の名医をたずねて手術をしてもらったりもしたけれど、結局状態が改善することは無かった。
 仕事も趣味もなくなって、じぃじは少しずつ元気をなくしていった。そんな中も、君たち孫が一人また一人と生まれてきたのは、とても嬉しく心慰められることだったんじゃないかな。61歳で初孫が誕生し、67歳で死んでしまうまでに7人の孫の顔を見ることができた。
 実家のリビングの揺り椅子で、赤ちゃんを抱っこしながら一緒にうとうととうたた寝をする姿は、とてもやさしい記憶として心に残っている。

 でも、正直に言うと、母さんはじぃじがあんまり好きじゃなかった。なぜなら、自分の欠点がことごとくじぃじと似ていたから。
 部屋は片づけられないし、何事もおおざっぱだし、締め切り間際にならないと仕事にかからないし、暇な時にはいくらでも寝るし、すね毛は濃いし……。
 ままちゃんが電話をかけてきて、じぃじのことを愚痴るたび、母さんははじめは苦笑いをし、やがてはまるで自分が責められているような気分になって、いたたまれなくなったものだ。
 そして、君たちを連れて帰省すると、じぃじは気力の失せた表情で、ぼんやりとテレビを見ていることが多くなった。こんな日々が続いたら、いまに認知症にもなって、さらにままちゃんに苦労をかけるんじゃないか、そう思うと、好きじゃないというより嫌いになってしまいそうだった。
 いつかじぃじが死んでも、涙も出ないんじゃないかと思ったことさえある。ひどい娘だよね。ままちゃんが死んじゃったら、絶対に泣いて悲しむと思うのに。

 そんなじぃじが、あと余命4ヶ月と医師に宣告されたのは、もう17年も前の7月のこと。末の君が、まだ母さんのお腹の中にいた時だった。
 じぃじは末期の癌だった。健診で要検査になっていたのを大分放ったらかしにしていたらしい。それまで内蔵の病気はしておらず、そもそも病院は嫌いで健診もロクに受けない人だった。
 ひとまず少しでも長く食事が摂れるよう手術が施され、退院後は自宅で過ごすことになった。離れて暮らす母さんに、できることはほぼなかった。君たち孫の顔を見せに、遊びに行くことくらいだった。

 じぃじは退院した後、徳島に帰省したり自宅に友人を迎えたりと、別れの時を過ごしていたけれど、その間も確実に衰えていった。段々と食事の量が減り、最後は炭酸飲料ばかり飲んで過ごしていた。
 母さんは、それまでも伯母さんを病気で亡くしていたけれど、身近な家族が病み衰えていくのを目の当たりにするのは初めてのことだった。
 じぃじは淡々と生きていた。少なくとも、母さんの目にはそう映っていた。お仏壇やお葬式など死に支度をしつつも、特に焦ったり取り乱したりする様子は見せなかった(後から、ままちゃんの前ではそれなりに動揺したり苛立ったりすることはあったと聞いたのだけど)。9月の誕生日に家族が集まった時、プロ野球の話題で盛り上がったのに対して「今年はどこが優勝するか、もう見られないんだなぁ」とぼそりと呟いたのを覚えているくらいだ。
 母さんは驚いていた。死に際して、人はこんなに自然体でいられるものだろうかと。もともと泰然自若としたところはあったけど、良くも悪くも、じぃじは変わらなかった。やせ細ってはゆくものの、口調はいつも穏やかで尖ったところがなかった。ヘビースモーカーだったじぃじは煙草も止めず、杖をつきながら換気扇の下までようやく辿り着くと、一服大事そうに吸っていた。「おいしい?」と訊くと、煙を吐きながら「まずいなぁ」と答えた。しみじみとこぼすその口調は、どこかとぼけたようなおかしみさえ感じさせた。
 9月の末、すっかり細くなった足をさすっていると、じぃじは「もう来るな、来なくていい」とかすれた声で言った。とうに臨月を迎えていたお腹の子に障ると気遣ったのだろう。それがお別れの日になった。

 じぃじの命が尽きるのが先か、お腹の子が生まれるのが先か、一つの区切りは出産予定日に訪れた。じぃじはその日を指折り数えながら、この世に踏みとどまってくれていたのかもしれない。その日も生まれる兆しはなく、日付が変わろうという深夜に、じぃじの容体は急変し救急車で病院に搬送された。ままちゃんによると、庭の金木犀が香る暗闇の中を、じぃじは家を離れて行ったという。
 母さんは千葉に駆けつけたかったけれど、「来るな」と言ったじぃじの気持ちを思ってぐっとこらえた。一日も早く、赤ちゃんを産んで安心させたかった。だけど、なかなか陣痛が来ない。何事もなく夜が明けて目が覚めるたび、気持ちが落ち込んだ。じぃじの容体は病院で一旦持ち直したものの、いつお迎えが来てもおかしくない状況だった。息の詰まるような一日一日が過ぎ、予定日の一週間後にようやく末の君は生まれた。

 じぃじは意識を保って、孫の誕生の報せを受け取ってくれた。無事の誕生も、三人目の女の子であったことも、どちらも喜んだという。良かったというその祝福の言葉が、じぃじの最期の言葉となった。翌日に持って行った赤ちゃんの写真には目を向けたものの、見たかどうかは分からない、それくらいぎりぎりの状態だったという。7人目の孫の誕生から二日後、じぃじはあの世に旅立った。

 その日の明け方に、母さんは産院で不思議な夢を見ていた。じぃじが庭を眺めながら虫の声を聴いていた。虫たちの食べる草を手入れしてやらねばと言うのを聞いて、今度は虫を放し飼いにしているのかと母さんは呆れて笑った。じぃじはかつて、家の仕事場でインコを放し飼いにし、その糞やら何やらでままちゃんを悩ませていたからだ。
 はっと目が覚めて、母さんはぼろぼろと涙を流して泣いた。ほどなくして実家から訃報の電話が入った。死んだらやっぱり悲しいじゃない、こんなに涙が出るじゃない。そう思った。

 じぃじが亡くなった後の片づけは、相当大変だったらしい。死ぬと分かってからも、大して片付けることもせずに、散らかしっぱなしでいってしまった。死後に見つかったメモ帳の話をままちゃんから聞いて、母さんは思わず笑ってしまった。余命の宣告を受けて、日記をつけ始めてみたものの、数日しか続かなかったらしい。
 母さんも日記とかブログの類は、三日坊主で終わってしまう。そんなところまで、母さんはじぃじに似ているのだ。

 じぃじが死んでしまってからの時間を考えると、自分がこれまでしてきたことのあれもこれも、じぃじは知らないんだと驚く。自分もいつかは死ぬ。死ぬと分かってから急に変わるわけでもない人生を、自分なりに生きていく。そう悟ることができて、母さんの時間の密度はそれまでより少し濃くなったかもしれない。
 人って、生きてきたように死んでいく。そんな風に死んでいく様を見せることで、じぃじは親として一番大切な教えを遺していってくれた。母さんはそんなじぃじが好きだし、誇らしく思う。じぃじに似ている自分のことも、仕方ないかとゆるせるようになったと思う。

 ただ、君たちには今から謝っておいた方がいいかもしれない。ままちゃんは、母さんのことをこんな風に言ったことがある。「あんたはブルドーザーみたいに事を運ぶ。だから、周りの人間はあんたがこぼしたものを、後から拾ってついていかなくちゃならない」って。
 ああ、別に拾ってくれってお願いしているわけじゃないよ。それに、呆れて笑って済む程度には、片付けてゆくつもりだからさ。多分。

2024年3月18日 魚座で海王星と太陽が重なる夕暮れに


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