「勇気づけ」の例:長男が一人で跳ぶ支援

アドラー心理学を子育てに使おうとする時、「子供を大声で怒ったり、叱ったりしないようにする」、「『ダメダメ』ではなくて良いことに注目する」、「褒めない」まではすぐに上手くできるのですが、子供を「勇気づける」ところになると具体の行動が難しいと感じています。

なので、その勇気づけを、3歳長男、5ヶ月次男に対して、上手くできた事例があれば、これから書こうと思います。

少し話がそれますが、アドラーさんはオーストリア人らしく、英語があまり自由では無いようでした。アドラーさんは、ヒットラーのせいで、第二次世界大戦の時に米国に亡命しています。元のオーストラリア圏内での著作は正確な言葉を使っているようですが、残念ながら、英語ではその真意が100%表現されていないところが多いように私は感じます。(岸見一郎さんの本にもそうありますね)

アドラーの「いい加減な英語」が日本語に訳されるので(言語に強そうな岸見一郎先生の著作を読んで私はアドラー心理学を理解したつもりになっている訳ですが、本物のアドラーが考えていたとこと完全一致しているかは自信がありません)、アドラーが主張しようとした真意とずれて伝わるところが、様々あるんじゃないかと私は思っています。言葉のニュアンスの問題で、翻訳すると、言語が違うと完全一致は不可能ですが。

私が違和感を持つ言葉の一つに「勇気づけ」という言葉があります。私はなんとなく、これにしっくりきません。

岸見一郎先生が、最新著書の『叱らない子育て』で使われている言葉の一つに、子供の自立を「支援」するというのがあります。「『支援』という言葉は、行動につながる言葉であるな」と私は思っていて、今日から子供を支援することにしました。「支援」とか、「援助」というのが、日本語で言う「勇気づけ」の正しい姿勢ではないかという仮説を私は持っています。

本日、3歳長男と近所の公園に遊びにいきました。そこには、SLがあり、デゴイチと呼ばれるD51がおいてあります。おもいっきり、昔の蒸気機関車なので、プラットホームと機関車には大きな段差があります。普段は、だっこしてそこを乗せていたのですが、長男もうすぐ4歳ということで、自分でD51(蒸気機関車)の運転席に登ります。運転席に登りますが、自分で降りることはできません。

長男:「パパ、だっこしてください」
パパ:「いいけど、ジャンプしてみればいいんじゃないの?」
長男:「やだよ、だって、怖いもん」
パパ:「じゃあ、パパが先に行くよ」

ふと思い立ち、私は、長男より先に降りて、長男の手を握ってやることにしました。長男は随分とやんちゃで、いつも階段なども何段か跳ばして跳んでいます。なので、きっと、跳んで跳べないことはありません。長男の飛び降りることへの恐怖心は正しい恐怖心であることでしょう。しかし、小学生のお兄さんは運転席から飛び降りているわけで、長男にとっても運転席はいつかは飛び降りるべき場所であります。

「ああ、なるほど、ここで必要なのが勇気なのだな」と私は思い、長男を支援することにしました。文字通り、手を差し出したのです。

パパ:「じゃあ、パパが手を握っているよ。とんでみたら」
長男:「にぎっててね」
   (といって、長男跳ぶ。無事、着地)
パパ:「跳べたねぇ・・・」

長男は、無事跳べました。長男も嬉しかったようです。次から長男は私に「手を握ってくれ」と要求し、自らの意思で次々と跳んでいました。(ちなみに、高すぎる場所では、「パパ、だっこして」と言います)

本人の意思で移動したり跳んだりするのが、この場合の子供の自立である訳で、それを支援するのが親の役目。この件で私は「慣れれば、一人で跳ぶようになるんだな」と学習しました。

この例は、アドラー心理学上の「勇気づけ」ができた気がするので、事例として書き起こしてみました。

しかし、子供の成長は嬉しいものでありますね。親にとっても、おそらく、子供本人にとっても。

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