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多様な時代に、「シンプル」を。

こんにちは!ADプランニングの水野です。

いま、世の中にはいろんな人がいますね。
いや、昔からいたはずなんですが。

特にここ数年は、その「いろんな」のレンジが四方八方に広がって、
「なるほどこの界隈の方々はそう捉えるのか」
がどんどん可視化されていった結果、
あらゆる場面で「”こう捉える人がいるかもしれない”運転」のスキルが求められるようになった気がします。

私たちは広告会社ですので、広告をご覧になる人々のことを常に考え、あらゆる「かもしれない運転」を展開しながら、デザインや言葉遣いをアレコレ考えます。
平たく言ってしまえば、これはいわゆる炎上対策なんですが、
配慮の行き届いた誠実な広告づくりは、ターゲットに刺さる広告を生み出すことと同じくらい、大切なことのように思います。

日常でもそう。
例えば、私はピーマンが嫌いだけど、
目の前の人はピーマンが大好きかもしれない。
なんなら親戚にピーマン農家の方がいるかもしれない。
そんな「かもしれない運転」は、コミュニケーションを幾分まろやかにしてくれます。
少なくとも「まじピーマン消滅してほしい」などとは絶対に言わなくなる。

これがきっと「多様性の尊重」
物凄く小さな次元の話ですけども、私はそう思っています。
(因みに今のは例で、ほんとはピーマン好きです。)

やりすぎた「かもしれない運転」

これは先日、通勤の電車に乗っていた時の話。

そこそこ満員の電車でした。
私は7人掛け座席のほぼ真ん中に座って、イヤホンでAdoを聴いていました。

途中、お年寄りのご夫婦が乗車されました。
Adoに聞き入っていた私は、そのご夫婦に気付くのに少し時間がかかってしまいました。
ハッとして席を立とうとしたその刹那、
私の脳内でこのような「かもしれない運転」が展開されたのです。

待って?
最近は「席を譲られることでかえって自尊心が傷付くタイプの高齢者」がいると聞く。確かに最近のお年寄りはとても元気で自分が恥ずかしくなる時がある。このお二人もそうかもしれない。
というか、「ぱっと見高齢者だから席を譲る」という行動にも懐疑的になるべき時代なのかもしれない。

「どうぞ」

そんな感じで脳はフル回転だったのですが、気付けば体の方が勝手に動いて、私は席を譲っていました。

席には、旦那さんが座られました。
旦那さんが腰掛け、背負っていたリュックを膝の上に下ろした時
隅で揺れるヘルプマークの存在に気が付きました。

「ありがとうね」と旦那さんは嬉しそうでした。
恥ずかしいことに、あの「かもしれない運転」は完全な杞憂だったのです。

対面する形だったので気付けなかった…旦那さんごめんね。

私が電車を降りる時、旦那さんはもう一度私に
「ありがとうね」と言ってくれました。
座ることのなかった奥さんからも「ありがとうね」をいただきました。

そのとき、驚くほどに心が満たされて、
景色がワントーン明るくなったような、そんな心持ちがしました。
なんだろう、このシンプルな嬉しさは。
とても小さなことなのですが、なんだか忘れていたような気がします。

多様化しても変わらないことがある

私がここで言いたいのは、
「かもしれない運転」のやりすぎは良くないとか、
私の両隣に座っていた人にも席を譲ってほしかったとか、
そういうことではないのです。

「自分」にとって、快ければ「ありがとう」
「相手」にとって、不快であれば「ごめんなさい」

このシンプルなコミュニケーションを忘れないでいたいということです。

もしあの時断られていたら、
「年寄りに見えるからって、馬鹿にしないでよ」と、もし言われていたら、
と考えてみたのですが、
素直に「ああ、ごめんなさい」と言えたら良いのかなと思うんです。

「多様性の尊重」
結局私には、このトピックの輪郭をふわふわとなぞることしかできなかったような気がしますが、
「多様性の尊重」は、小さな思いやりの延長にあるものだと思うのです。

皆さんにも私にも様々なバックグラウンドがあって、
仕事でもプライベートでも、細やかな「かもしれない運転」が求められる時代だからこそ、
私もシンプルな「ありがとう」と「ごめんなさい」を、大事にしていきたいなと思います。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました!


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