特修兵
某ウィキペディアで「特修兵」を検索してみたら独立項目はなく「下士官」の歴史の中に埋め込む形で言及されていました。経緯は追えますがその意義や運用については読み取りづらく、そのためここでまとめてみることにします。
特修兵とは
現在の社会でも資格を持っていることが仕事に有利に働くことは多い。職種によっては資格が前提であることがある。公的な資格でなくとも組織内で内部資格のような制度を設けている場合もあるだろう。旧日本海軍でもそうした制度があり、海軍部内の学校などで所定の教科や訓練を修めた者を総称して「特修兵」と呼び人事や処遇の面でそれ以外の一般兵とは多少異なる扱いをされることになる。なお「特修兵」と呼ばれるが兵に限らず、下士官も該当する。ただし准士官以上は含まれない。
特修兵とされるために求められる技能(「特別な技術」)は海軍特修兵令で定義されている。時期によって増加傾向にあり最終的には20以上にまで増えたが、砲術や水雷術など直接戦闘に関連する技能から、信号術や気象術など艦船の運航に関わる技能や、看護術や衣糧術・経理術といった後方支援に関する技能など多岐にわたった。飛行機の操縦なども飛行術としてこうした技能のひとつと位置づけられていた。こうした技能を習得したと認定されると技能に応じて掌砲兵、掌水雷兵、掌飛行兵、掌信号兵、掌経理兵など「掌○○兵」と呼ばれることになる。「○○」の部分にはだいたい技能の名称がそのまま入るが、運用術については掌帆兵、機関術については掌機兵などと歴史的経緯によって多少異なるケースがある。
特修兵になるには
特修兵になるためには、学校や艦船部隊に設けられている練習生課程を受講して修了する必要がある。例えば横須賀の海軍砲術学校では砲術練習生課程を設けて各艦船や部隊から練習生を受け入れて教育を行なっていた。練習生教育は主にこうした学校でおこなわれていたが、運用術や信号術に関しては長らく運用術練習艦に指定された艦船でおこなわれており、陸上に固定された施設をもつ海軍航海学校が開設されたのは昭和に入ってからのことだった。また飛行術や整備術など航空関係の練習生教育は部隊である海軍航空隊のうち練習航空隊に指定された航空隊(霞ヶ浦航空隊など)で実施された。さらに看護術教育は海軍病院でおこなわれるなど、実情に応じて様々な形態がとられた。また運用術のように時期によっても変遷がある。
海軍に長く勤めようとするならば特修兵となることはかなり有利に働いたので希望者は多かったという(技能にもよる)。部隊側も技能を習得して戻ってくることは望ましい。結果として希望者は多く、練習生に採用されること自体が狭き門だった。勤務成績が優秀で教科や訓練についていける頭脳と体力の持ち主であることが求められた。技能によって練習生の倍率自体が数倍になったという。
練習生課程には普通科・高等科・特修科といった異なるレベルの課程が設けられた(技能によっては必ずしもこの通りにはならない)。まず履修するのは普通科練習生課程になる。普通科練習生課程に応募するための条件は技能ごとに定義されているが、だいたい二等兵くらい(戦前の日本海軍の兵は一等ないし四等の四等級制)が応募資格とされていた。海軍入隊から2年程度になるだろうか。部隊での下っ端仕事をこなしながら受験勉強に励み首尾よく練習生に採用されるとたとえば横須賀の海軍砲術学校などで寮生活を送ることになる。
普通科練習生課程を修了すると晴れて特修兵と認められ、技能によって例えば掌砲兵などと呼ばれることになる。特修兵は制服の袖に特技章を貼付して視覚的にも区別された。技能とレベルごとに異なったデザインの特技章が設定されており、たとえば普通科砲術練習生修了者は横向きの大砲をあしらったデザインで俗に「横鉄砲」と呼ばれ、高等科砲術練習生修了者は大砲を二本斜めに組み合わせたデザインで俗に「かけ鉄砲」と呼ばれた。掌水雷兵の特技章にあしらわれた魚雷は古い形を残した中央部が太い形態になっており俗に「金魚」と呼ばれた。しかし太平洋戦争がはじまると技能にかかわりなく統一された桜のデザインとなり、色で普通科・高等科を区別した。こうした特技章は「マーク」と呼ばれ、転じて特修兵を「マーク持ち」「○○(鉄砲、水雷など)マーク」とも呼んだ。これに対して特技を持たない者を「ノーマーク」と称した。
海軍兵の現役期間は志願兵で5年、徴兵で3年、以後志願により2年ごとに延長されることになっていたが、特修兵になるとその時点から(半年単位で)現役期間が延長された。例えば普通科砲術練習生課程を修了すると4年の義務現役期間が課せられた。
高等科練習生課程は普通科よりもさらに高等の技能を習得することを目的としていた。普通科修了を前提とすることが多く、応募資格は古参の一等兵から下級下士官程度だった。普通科よりもさらに狭き門だがすでに普通科特修兵の資格をもち専門家として認知されているので受験勉強はやりやすかったのではないか。高等科を修了すると現場ではその道の権威である。特修科に進むのはさらに限られた人材で准士官や特務士官に進級し現場では「神様」扱いだった。
特修兵の配属
士官は毎年転勤することが珍しくなかったが、下士官兵の転勤はそれほど多くなく、同じ艦や部隊で何年も勤務することが多かった。しかし特修兵が特定の艦船や部隊に偏ることは好ましくない。海軍大臣が定めた「特修兵教員配置規則」の中で、それぞれの部隊や艦船に特修兵を何名配属するかの基準を定めていた。例えば戦艦長門・陸奥については
特修科掌砲兵 5名
高等科掌砲兵 71名
普通科掌砲兵 125名
高等科機雷術掌水雷兵 1名
普通科機雷術掌水雷兵 1名
高等科操舵術掌帆兵 6名
高等科応急術掌帆兵 6名
普通科掌帆兵 14名
高等科掌信号兵 13名
普通科掌信号兵 26名
高等科掌電信兵 12名
普通科掌電信兵 18名
掌飛行兵(操縦・偵察) 5名
高等科掌航空兵器兵 1名
高等科掌整備兵 4名
普通科掌整備兵 6名
高等科機関術掌機兵 19名
普通科罐術掌機兵 16名
普通科機関術掌機兵 47名
普通科罐術掌機兵 24名
高等科掌内火兵 2名
普通科掌内火兵 4名
高等科掌電機兵 15名
普通科掌電機兵 27名
高等科鍛冶術掌工兵 3名
普通科鍛冶術掌工兵 5名
高等科機械術掌工兵 3名
普通科機械術掌工兵 6名
高等科仕上術掌工兵 2名
普通科仕上術掌工兵 5名
高等科板金術掌工兵 2名
普通科板金術掌工兵 2名
高等科溶接術掌工兵 1名
普通科溶接術掌工兵 1名
高等科鋳造術掌工兵 1名
普通科鋳造術掌工兵 3名
高等科木具術掌工兵 4名
普通科木具術掌工兵 7名
高等科掌経理兵 2名
普通科掌経理兵 4名
と細かく指定されている(昭和17年末内令提要による)。こうした規定に従って下士官兵の人事権をもつ鎮守府司令長官が特修兵を配属することになる。従って特修兵は一般の「ノーマーク」よりも転勤が多くなったことだろう。
定員と特修兵 - ウィキペディアを信用するな
少し前、ウィキペディアである日本海軍艦艇の項目を見ていておかしなことに気づきました。定員のところに注釈がつけてあり、そこに「特修兵は含まない」と記されていたのです。それまでちゃんと調べたことはありませんでしたが、直感的に「これはおかしい」と思いました。
上で述べた通り、特修兵の配属数は技能とレベルごとに細かく規定されており、戦艦長門などの大艦では単純に合計しても500名を超えます。それだけの大人数が定員外というのはあり得るのでしょうか。また特修兵は資格保持者として一目置かれる存在ではありましたが、普段の生活という面では一般の兵と変わりません。艦船では艦内に起居し、食事をし、日課をこなしていました。艦船の定員は居住区の広さ、食事の量、日常消費する消耗品の数などにも影響する重要な数字です。その中に常時居住する特修兵が含まれていないとはとても考えられません。いったいこの記述は何を根拠にしているのだろうと思いましたが、注釈そのものの根拠はみあたりませんでした。そこで自分で調べてみることにしたのです。
艦船の定員は「海軍定員令」という法令の附表で細かく規定されています。戦艦長門については士官47、特務士官19、准士官14、下士官328、兵912という合計が読み取れます。実際の記述はさらに細かく、例えば士官として艦長 大佐 1、副長 中佐 1、などの役職ごとの階級と員数、兵の内訳として水兵619、機関兵209、主計兵35、工作兵28、整備兵14、看護兵7などが定められています。なお同型の陸奥と比較すると長門のほうが水兵が2名多くなっていますが理由はわかりません。また戦時中には臨時増置という形でこの規定よりずっと多くの乗員が乗り組んでいました。
海軍定員令では特修兵について
と定めており、それに従って海軍大臣が定めたのが既述の「特修兵教員配置規則」になります。なお「海軍定員令」と「特修兵教員配置規則」はともに外部に公開しない「内令」という法令形式になりますが、前者は勅裁(天皇の承認)を経ているのに対し後者は勅裁を経ず海軍大臣の決裁によるもので前者の方が格上ということになります。
では「特修兵教員配置規則」には定員と特修兵配置数の関係についてどう記載されているかというと、次の条文が見つかります。
「艦船などに配属される特修兵はその定員に含まれる」とされており、つまり定員の内数であると解釈できます。法理論的にも、天皇の勅裁を経た「海軍定員令」で定めた定員の外に海軍大臣が職権で定めた「特修兵教員配置規則」で定める特修兵を置くことができるとすると、天皇の権限を海軍大臣が超えることになり不適当です。むしろ天皇が定めた定員の範囲内で海軍大臣が特修兵を配置することができると考えるのが自然です。この規定は少なくとも大正5年の海軍定員令・特修兵教員配置規則制定時からすでに存在し、その後特に改正された様子はみられません。昭和17年末の内令提要にはこれらの条文がそのまま残っています。運用上のことを考えても、内数を外数(あるいはその逆)に変更した場合、海軍定員令の膨大な附表をすべて書き直さなくてはいけません。その事務量はあまりに多く、メリットもありません。結局、終戦まで「特修兵教員配置規則」で定める特修兵の配置数は定員の内数だったと考えるのが妥当でしょう。
試みにウィキペディアを「特修兵は含まない」で検索してみると多くの項目がヒットし、誰かこの「事実」を発見した人物が片っ端から追記していったことがうかがわれます。しかし残念ながらそれは誤りだったと断じざるを得ません。
おわりに
個人的な感想ですが、いまのウィキペディアは作法やルール・指針でガチガチに固められていて一見さんの新入を受け付けにくい環境になってしまっているように感じており、かつての「集団知」という掛け声が有名無実になりつつあるように私には見えます。数字や事実、日付などの客観的なデータを調べるのには重宝しますが地の文章はひとつの意見として距離を置く態度が身についてしまいました。英語版はそこまで極端ではないように見えますが、それも自分の語学力不足で読み取れていないだけかもしれません。しかしそう思われているというだけでもウィキペディアには損なのではないでしょうかね。
ではまた機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は特技章の一部・海軍制度沿革より)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?