海軍軍人の辞令 - 小林躋造を例にとり
海軍軍人伝を書いていて、辞令の表記についてもう少し説明しておいたほうがいいかなあと思いました。階級とか組織の話でそれなりに説明はしているものの、実例がないとわかりにくいし、かといって個人の伝記の中でいちいち触れていると話の流れをぶった斬ってしまいます。そこで、実際の官報での記載をとりあげて見ていこうと思いました。ここでは小林躋造の履歴から抜き出してみます。
少尉候補生
小林躋造が海軍少尉候補生を命じられたのは明治31年12月13日である。「海軍少尉候補生」は部内限り高等官待遇という扱いで正式な階級(=官名)ではないので「海軍少尉候補生に任ずる」とは書かない。
同時に軍艦比叡への乗組を命じられる。候補生は定員外なのでこれも補職とはみなされず「命じられる」。辞令には「軍艦」などの艦種は記載しない。
海軍少尉
明治33(1900)年1月12日に小林躋造は海軍少尉に任じられる。少尉は候補生と違って正式な階級(=官名)であり辞令では海軍少尉に「任じる」。
乗組士官
小林躋造は少尉任官と同時に軍艦富士乗組を仰せつかる。
艦船令には軍艦の職員(乗員とはいわない)が挙げてありその中に「乗組」がある。つまり乗組は職名である。分類を加えて「乗組士官」「乗組准士官」などと呼ぶことが多い。それでもやはり動作としての「乗り組み」を含意しているためか、乗組は職名のように「補する」ものではなく「仰せつけらる」ものであった。小林はこれ以前の候補生の時期からすでに富士乗組を命じられていたが、定数外の候補生から定数に含まれる乗組士官に変わったため改めて辞令が出されている。
心得
小林躋造は明治35(1902)年12月6日に巡洋艦浪速砲術長心得兼分隊長心得を仰せつけられた。「心得」について調べてみたが明確な規定はみあたらなかった。実際の運用から類推すると本来あてられるべき階級よりも低い階級の人物をその職にあてる場合に「心得」と呼んでいる。この場合、本来であれば大尉以上があてられるべき砲術長・分隊長にまだ海軍中尉である小林があてられたため心得と呼ばれることになる。砲術長や分隊長は職名であり「補する」ものだが、心得の場合は「仰せつけらる」。
これは「乗組」にも共通するが「仰せつけられた」ものを免じられる場合は「○○被免」という辞令が出され、補職を免じる場合の「免○○」と異なる。辞令の内容は漢文調でかなり長いが書き下してみると「横須賀水雷団水雷敷設隊分隊長心得を免ぜられ、浪速砲術長心得兼分隊長心得を仰せつけらる」と読む。
心得から正職
小林躋造は明治36(1903)年9月26日に海軍大尉に進級する。浪速砲術長兼分隊長の職そのものは変わらないが「心得」は外れる。そのため改めて補職の辞令が出された。
海軍次官
ここで時間を飛ばして昭和5(1930)年6月10日の海軍次官任官を見てみよう。ほとんどの海軍部内の配置は「職」だが海軍大臣と海軍次官は「官」であり、このあいだだけ階級(海軍中将)と海軍次官の複数の官をあわせもつことになる。海軍次官の辞令は内閣から出る。また同時に海軍将官会議議員の「職」にも補せられる。通常「兼任」と扱われるが「官」と「職」を同時にもつことになる。
これ以前は「海軍艦政本部長」が本職で「海軍将官会議議員」が兼職だったが、職については「海軍将官会議議員」が本職に変わる。こういう場合は本職と兼職の両方を免じて改めて本職を発令する。
免海軍次官・親補職
昭和6年12月1日に海軍次官を退任し、第一艦隊司令長官兼聯合艦隊司令長官に親補された。親補職の辞令は天皇自らが直々に伝達するもので別立てになる。このときには親補の辞令と、内閣から出る海軍次官免官の辞令と、将官会議議員の職を免じる辞令の3本セットで一連の辞令になる。
なお、親補職を免ずる辞令は通常の補職と同様に扱われ天皇からは出されない。小林と交代で聯合艦隊司令長官を免じられた山本英輔がこうした例にあたる。軍事参議官に親補する辞令と、聯合艦隊司令長官を免ずる辞令が別に出された。
おわりに
簡単ですが実際の辞令の事例(シャレではない)で説明してきました。実は海軍軍人伝の中でもこうした用語に気を遣いながら書いているのです。ほぼ気付かれていないとは思いますが。今後、読んでいただくときに少しでも感じてもらえれば幸いです。
官報はこちらから参照できます。最近は検索もできるようになったみたいでだいぶ便利になりました。
ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は昭和6年12月1日の官報)
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