見出し画像

聯合艦隊司令長官伝 (7)鮫島員規

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は鮫島員規です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

聯合艦隊参謀長

 鮫島さめじま員規かずのりは弘化2(1845)年5月10日、薩摩藩士の家に生まれた。戊辰戦争に従軍したあと海軍に出仕して明治4(1871)年7月28日に海軍少尉試補を命じられた。海軍将校としては最下級からはじめることになる。装甲コルベット龍驤りゅうじょうに乗り組み、明治5(1872)年10月28日に海軍少尉に任官、明治7(1874)年5月20日に海軍中尉に進級した。すでに29歳になっていた。砲艦鳳翔ほうしょうに移って西南戦争では有明海に面した日奈久の攻撃に参加している。明治10(1877)年12月28日には海軍大尉に進級して鳳翔副長に昇格する。
 コルベット比叡ひえい副長を経て明治15(1882)年6月6日に海軍少佐に進級する。この後しばらく海軍軍事部、参謀本部海軍部、海軍参謀本部、海軍参謀部と名称は変わるが軍令組織での勤務が続いた。明治19(1886)年4月7日に海軍中佐に進級するがその3ヶ月後の7月13日に中佐の階級が廃止されて階級が海軍大佐に統合された。比叡の姉妹艦である金剛こんごう艦長、装甲フリゲート扶桑ふそう艦長を歴任して、三景艦のはじめとなる松島まつしまの受領のためフランスに渡った。明治25(1892)年10月に帰国して翌年には横須賀鎮守府参謀長に移った。
 日清戦争が切迫すると常備艦隊参謀長に起用され伊東いとう祐亨すけゆき司令長官を補佐した。聯合艦隊が編成されるとその参謀長も兼ねて、黄海海戦など日清戦争前半の作戦に関与した。もっとも鮫島参謀長は実務を参謀の島村しまむら速雄はやお大尉に任せきりだったと言われる。

常備艦隊司令長官

 明治27(1894)年12月17日に海軍少将に進級して参謀長を出羽でわ重遠しげとおに譲り、常備艦隊の一部を指揮する司令官に補せられる。巡洋艦からなる第一遊撃隊を坪井つぼい航三こうぞうから引き継いだが威海衛の攻略が終わると西海艦隊司令官に移った。台湾平定がいち段落して西海艦隊が解散されると常備艦隊に戻り、さらに海軍大学校長をつとめる。明治30(1897)年10月8日、海軍中将に進級した。横須賀鎮守府司令長官を経て明治32(1899)年はじめに常備艦隊司令長官に補せられた。この時期には日清戦争前後に国内外で建造に着手した軍艦が順次就役しており、前年には類別標準が制定されて各艦種の分類が正式に定められるなど制度の整備も進んだ。常備艦隊司令長官を1年あまりつとめて佐世保鎮守府司令長官に補せられた。

 日露戦争の開始を鮫島は佐世保で迎えた。黄海につながる東支那海に面した佐世保は、日清戦争に引き続き日露戦争でも国内の最前線基地になった。日常の整備や補給のほとんどは佐世保が担うことになる。艦隊の規模もはるかに大きくなり、期間も大幅に伸びた日露戦争では、基地の負担も日清戦争とは比べ物にならないほど重くなっており多忙を極めた。ただ鮫島は実務のほとんどを、海軍大学校長から参謀長にひっぱってきた坂本さかもと俊篤としあつ少将に任せっきりだったという。
 日清戦争のときの聯合艦隊参謀長と同じく、佐世保でも部下に実務を任せっきりにしたことから鮫島は部下の功績を盗んだとの批評があるが、組織の長たるものの役割はまず部下を働かせることで、それ自体が職務であり功績である。また当時は将たるもの部下に手腕を発揮させて細かい口出しはしないものとされていて、西郷さいごう隆盛たかもり大山おおやまいわおなどが理想像としてもてはやされた時代でもあった。大山を持ち上げて鮫島をおとしめるのは不公平だろう。

 聯合艦隊の凱旋観艦式も終わり戦争の終結がみえた明治38(1905)年11月13日に海軍大将に親任された。戦後の明治38(1906)年2月2日に待命となり、ちょうど1年後に休職を仰せ付けられてまもなく明治40(1907)年2月14日に予備役に編入された。同年9月21日に男爵を授けられ華族に列せられた。実はこの大将親任から男爵授与まではすべて柴山しばやま矢八やはちと同日である。満65歳の明治43(1910)年5月10日に後備役に編入された。

 鮫島員規は明治43(1910)年10月14日に死去。満65歳。海軍大将正二位勲一等功二級男爵。

海軍大将 男爵 鮫島員規 (1845-1910)

 鮫島は岩倉いわくら公爵家から養子をとって男爵家の跡継ぎにした。鮫島具重ともしげはのち海軍中将となり太平洋戦争ではソロモン諸島を担当する第八艦隊司令長官をつとめた。

おわりに

 鮫島員規もあまり知られていないですね。黄海海戦では参謀長だったのですが遊撃隊司令官の坪井、長官の伊東、参謀の島村の影に隠れてしまいました。大将にまでのぼれたのは薩摩だったからとも言われ、確かにそういった側面は否定できませんが、日清戦争から日露戦争にかけての日本海軍で一定の存在感を発揮したことは確かでしょう。

 次回は東郷平八郎です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は初級士官として乗り組んだ砲艦鳳翔)

附録(履歴)

弘化 2(1845). 5.10 生
明 4(1871). 7.28 海軍少尉試補 龍驤乗組
明 5(1872).10.28 海軍少尉
明 7(1874). 5.20 海軍中尉
明 8(1875).11.17 鳳翔乗組
明10(1877).12.28 海軍大尉
明11(1878). 1. 7 鳳翔副長
明11(1878). 5.14 比叡副長
明13(1880). 3.15 比叡乗組
明14(1881). 7.19 比叡副長
明15(1882). 6. 6 海軍少佐
明17(1884). 2. 8 海軍軍事部出勤(第二課)
明18(1885). 5. 2 海軍軍事部第三課長
明19(1886). 3.22 参謀本部海軍部第一局第一課長
明19(1886). 4. 7 海軍中佐
明19(1886). 4.12 参謀本部海軍部次副官
明19(1886). 7.13 海軍大佐
明20(1887).10.27 参謀本部海軍部第二局長
明21(1888). 5.14 海軍参謀本部第二局長
明22(1889). 4.17 金剛艦長
明23(1890). 5.13 扶桑艦長
明24(1891). 6.17 松島回航委員長(仏国出張被仰付)
明24(1891). 8.28 松島艦長
明26(1893). 5.20 横須賀鎮守府参謀長
明27(1894). 6.19 常備艦隊参謀長
明27(1894).12.17 海軍少将 常備艦隊司令官
明28(1895). 2.16 西海艦隊司令官
明28(1895).11.16 常備艦隊司令官
明29(1896).11. 5 海軍大学校校長/海軍将官会議議員
明30(1897).10. 8 海軍中将
明31(1898). 2. 1 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
明32(1899). 1.19 常備艦隊司令長官
明33(1900). 5.20 佐世保鎮守府司令長官
明38(1905).11.13 海軍大将
明39(1906). 2. 2 待命被仰付
明40(1907). 2. 2 休職被仰付
明40(1907). 2.14 予備役被仰付
明40(1907). 9.21 男爵
明43(1910). 5.10 後備役被仰付
明43(1910).10.14 死去

※明治5年までは旧暦


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?