支那方面艦隊司令長官伝 (11)近藤信竹
歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は近藤信竹です。
総説および前回の記事は以下になります。
陸奥運用長
近藤信竹は明治19(1886)年9月25日に大阪で生まれた。日露戦争の真っ最中に江田島の海軍兵学校に入校する。明治40(1907)年11月20日に第35期生172名の首席で卒業し海軍少尉候補生を命じられた。巡洋艦厳島で遠洋航海に出航し、東南アジアを巡って台湾海峡の澎湖群島に戻ってきて馬公軍港に停泊していた明治41(1908)年4月30日、同じく練習艦隊に所属していた松島が爆発事故を起こして沈没する。近藤の同期生の候補生を含む多数が殉職した。このあと清国から北海方面に向かう予定だったが吉松茂太郎司令官は予定を切り上げて佐世保に向かった。
近藤は戦艦三笠に配属され、明治41(1908)年12月25日に海軍少尉に任官した。翌年に日露戦争で捕獲し編入された装甲巡洋艦阿蘇に移る。阿蘇のような捕獲艦はもともと日本向けに製造されていないため艦隊では使いづらく、練習艦隊に配属されることが多かった。司令官伊地知彦次郎の指揮で海兵第37期生を乗せてオーストラリア、東南アジアを巡った。帰国後は砲術学校と水雷学校の普通科学生をこなしている間の明治43(1910)年12月1日に海軍中尉に進級した。駆逐艦如月で勤務したあと、イギリスに発注された超弩級巡洋戦艦金剛の受領のためイギリスに派遣される。無事に金剛を日本に運んだ直後の大正2(1913)年12月1日に海軍大尉に進級して砲術長を養成する砲術学校高等科学生を命じられた。海軍大学校の乙種学生は術科学校の高等科学生の前提となる課程で事実上一体のものとして運用された。のち乙種学生は高等科学生に統合される。
呉で建造中の戦艦扶桑で勤務したあと、第二艦隊参謀を経て第一艦隊参謀に補せられた。当時は第一次世界大戦中で、司令長官は吉松茂太郎だった。近藤が候補生だった当時の練習艦隊司令官である。巡洋艦秋津洲砲術長をつとめたあと、海軍大学校甲種学生(第17期生)を命じられる。修了と同時となる大正8(1919)年12月1日に海軍少佐に進級した。しばらく軍令部で勤務していたが海外出張が命じられる。はじめスイス駐在と発令されたがすぐにドイツに変わる。敗戦直後のドイツに2年あまり滞在して帰国すると戦艦陸奥の運用長に補せられた。運用長は本来は航海系統の運用学生出身者があてられるはずだったが、縁の下の力持ちだった運用は人気がなく慢性的に人材不足だった。苦肉の策で近藤のような畑違いがあてられることもあったようだ。実務は古参の特務士官・准士官である掌帆長が仕切った。
大正12(1923)年12月1日に海軍中佐に進級し、東宮武官兼侍従武官に補せられる。侍従武官は天皇に、東宮武官は皇太子に常時つき従い、天皇や皇太子と軍の連絡などに任じたが、当時の大正天皇は療養中で皇太子(昭和天皇)が摂政をつとめており、そのため東宮武官が本職で侍従武官は兼職だった。2年弱で転出して、聯合艦隊参謀に補せられる。この昭和2(1927)年度の聯合艦隊司令長官は加藤寛治だった。美保関事件の前、第一水雷戦隊参謀だった小沢治三郎は聯合艦隊参謀の近藤に訓練計画の見直しを求めたが近藤は「(高橋三吉)参謀長に言ってくれ」といわばたらい回しにした。小沢の申し入れを聞いた高橋はしかしそれを受け入れず計画通りに訓練を実行して衝突事故が発生し多数の犠牲者を出した。これを契機に小沢は近藤に悪い印象をもったという。
軍令部次長
昭和2(1927)年12月1日に海軍大佐に進級して海軍大学校教官を2年間つとめた。巡洋艦加古の艦長に補されるがロンドン軍縮会議のごたごたで首脳部に大きな人事異動があり近藤は軍令部の作戦課長(第一班第一課長)に発令される。海軍軍令部長は谷口尚真だったが、昭和7(1932)年はじめに伏見宮博恭王に交代した。次長も聯合艦隊司令部での上司であった高橋三吉に代わった。近藤はドイツ駐在の経験からドイツに親しみを感じており、やはりドイツ留学経験をもつ伏見宮に気に入られていたようだ。高橋次長は軍令部の権限強化をはかっていたがそれが実現する前に近藤は転出して、かつて回航委員をつとめた戦艦金剛の艦長をつとめて昭和8(1933)年11月15日に海軍少将に進級した。
海軍大学校教頭を1年あまりつとめて、昭和10(1935)年度の途中から聯合艦隊の参謀長に補された。司令長官は高橋三吉である。年度末で軍令部第一部長に移り、実に3年間つとめた。平時としては異例である。途中、日中戦争がはじまって大本営が設置され、昭和12(1937)年12月1日には海軍中将に進級した。
昭和13(1938)年末、第五艦隊司令長官に親補される。第五艦隊は支那方面艦隊の隷下で華南を担当していた。近藤の指揮で第五艦隊は海南島を占領する。海南島はさらなる南進の拠点となった。1年で帰京し軍令部次長に補せられる。ちょうど第二次世界大戦がはじまっており翌年にはフランスが降伏した。ドイツとの提携論が急速に高まり、もともと親独派だった近藤も荷担する。米内光政内閣が退陣に追い込まれた昭和15(1940)年夏に提携は一気に進展し、日独伊三国軍事同盟が成立した。太平洋戦争の開戦直前に第二艦隊司令長官に親補される。戦艦主体の第一艦隊は決戦に備えて内地で待機とされ、南方作戦では第二艦隊が主力となった。もともと南方作戦では現地兵力とされた南遣艦隊を機動運用される第二艦隊が支援する形だったが、南遣艦隊司令長官である小沢治三郎と近藤の関係はよくなかった。それでも近藤と小沢は争うようなことはなく、作戦は成功で終わる。
ミッドウェー作戦では第二艦隊は攻略部隊として出撃したが機動部隊が全滅して作戦は中止された。ガダルカナル戦がはじまると第二艦隊は単独で飛行場砲撃作戦などを実施する一方で、機動部隊である第三艦隊と組んで前衛部隊として空母戦を戦った。近藤は第三艦隊長官の南雲忠一よりも先任だったが軍隊区分では機動部隊の指揮をうけるとされ、難しい立場にあったが近藤は前衛の役割に徹した。それでもやりにくさはあったようで、昭和17(1942)年11月に第三艦隊司令長官が南雲より1年後輩になる小沢治三郎に代わると問題は解決するどころか深まった。幸いにもガダルカナル戦後は空母戦はしばらく起きなくなり、昭和18(1943)年4月29日に近藤が海軍大将に親任されたこともあり、第二艦隊を栗田健男(小沢の1期下)に譲って軍事参議官に移ったことで最終的に解決した。なお大将進級の直前に山本五十六聯合艦隊司令長官が戦死したときには、次席指揮官として後任の古賀峯一が着任するまで聯合艦隊の指揮をとった。
昭和18(1943)年末に支那方面艦隊司令長官に親補されて上海に着任した。当時、中国大陸方面では陸軍が飛行場破壊を目的とした攻勢作戦を計画していたが、海軍ではかつての3個艦隊編制が1個艦隊と直属部隊にまで縮小されていた。しかし昭和19(1944)年も年末に近くなると南西諸島や台湾が米軍の空襲をうけ、フィリピンにも上陸するなど安閑としていられなくなった。昭和20(1945)年に入ると連合軍の中国大陸上陸が真剣味をもって危ぶまれるようになり、聯合艦隊が作戦に関して支那方面艦隊を指揮するとされた。沖縄の失陥が確実になると海軍総司令部が新設されて聯合艦隊、支那方面艦隊、鎮守府などの実力部隊を統一指揮することになり、事実上聯合艦隊の指揮下に入った。それからまもなく、小沢治三郎が海軍総司令長官に抜擢されることになり、小沢より先任となる各指揮官は交代することになる。近藤もそれに含まれ、福田良三(栗田健男と同期)と交代して軍事参議官として帰京した。
終戦後の昭和20(1945)年9月5日に58歳で予備役に編入された。
近藤信竹は昭和28(1953)年2月19日死去した。享年68、満66歳。海軍大将正三位勲一等功二級。
おわりに
近藤信は太平洋戦争前半の第二艦隊司令長官として名前は知られていると思います。しかし戦争の後半には支那方面艦隊司令長官だったのは知られていないと思います。戦闘指揮については「上手」「下手」という評価が混在しているようです。
次回は最終回、福田良三です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は近藤が艦長をつとめた重巡洋艦加古)
附録(履歴)
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