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海軍大臣伝 (8)財部彪

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は財部彪です。
 前回の記事は以下になります。

日露戦争まで

 財部たからべたけしは慶応3(1867)年4月7日、日向国都城で生まれた。都城藩士の家系といわれるが、都城島津家は将軍の直臣ではなく鹿児島薩摩藩島津家の一門で、4万石を知行し並の大名よりよほど大身であったがそれでも将軍から見ると陪臣になる。財部は明治18(1885)年に築地の海軍兵学校に入校、在校中に学校は江田島に移転し明治22(1889)年4月20日第15期生80名の首席として卒業し海軍少尉候補生を命じられた。
 この年の遠洋航海はコルベット金剛こんごう比叡ひえいがあてられ、財部は金剛に乗り組んだ。同行した比叡の報告によると8月13日に品川沖を出航、横須賀で石炭を搭載して14日出港。9月18日ハワイ・ホノルル着。10月15日出港、16日ハワイ島ヒロ着。20日出港、11月16日サモア群島ツツイラ着。27日出港、28日アピア着。30日出港、12月6日フィジー諸島レユカ着。8日出港、スバ着。22日出港、1月25日グアム島ウマタ着。28日出港、同日アプラ着。2月6日出港、明治23(1890)年2月22日品川沖に帰国した。
 遠洋航海を終えて財部は巡洋艦高千穂たかちほに移り、明治23(1890)年7月9日海軍少尉に任官される。翌明治24(1891)年、フランスで建造された三景艦の1隻松島まつしま受領のため渡仏する。1年あまりの出張から帰国し、海軍大学校の丙号学生として1年学んだのちに短期間の松島に戻ってから巡洋艦高雄たかおに移る。
 日清戦争では高雄の分隊長、航海長として従軍したがすでに時代遅れになっていた高雄は西海艦隊に配属されて黄海海戦には参加しなかった。威海衛の封鎖などに従事している。この間の明治27(1894)年12月7日に海軍大尉に昇進している。戦後は常備艦隊参謀として有地ありち品之允しなのじょう中将、井上いのうえ良馨よしか中将、坪井つぼい航三こうぞう中将の歴代司令長官に仕えた。

 明治30(1897)年、海軍では優秀な若手士官を欧米に留学させることとし、財部は英国留学に選ばれた。これを機会にして財部に縁談が持ち上がる。相手は軍務局長山本やまもと権兵衛ごんべえの長女イネだった。話を聞いた財部は困惑して同期生の広瀬ひろせ武夫たけおに相談すると広瀬は山本の自宅に乗り込んで「財部は放っておいても出世する男です。それが閣下のお嬢さんをもらったおかげだといわれるのは閣下のためにも財部のためにもなりません。この縁談はやめたほうがいいでしょう」と忠告した。山本は「自分の娘婿だからといって贔屓することはない。心配無用である」と応えたが、広瀬の物おじしない態度に感心した山本は、決して優秀とは考えられていなかった広瀬をロシア留学生に抜擢した、と伝えられている。ところがどうもこの記述は辻褄が合わないという話もあるらしい。広瀬がロシア留学の含みで軍令部出仕となった3月にはまだ財部の縁談はなかった、というのである。人事のことで選考理由は残されていないだろう。さらなる研究がまたれる。
 いずれにせよ財部は以後3年にわたって日本を離れることになる。財部と広瀬のほか同時に留学を命じられたのはアメリカが秋山あきやま真之さねゆき、フランスが村上むらかみ格一かくいち、ドイツがはやし三子雄みねおと錚々たる顔ぶれであった。出立直前の5月15日、財部は山本イネと結婚する。舅の山本権兵衛は当時としては珍しい愛妻家で、その夫婦に育てられたイネも当時の一般的な家庭とは違った家庭像を持っていたのかもしれない。夫婦仲は悪くなかったようだ。

 英国に留学すること2年あまり、明治32(1899)年9月29日には海軍少佐に昇進もして、そろそろ帰国を考える時期がやってきた。このころ日本海軍では水雷艇駆逐艇、のちの駆逐艦の整備を始めていたが日本海軍にはノウハウがなく、先進国であるイギリスからの輸入に頼っていた。著名な駆逐艦メーカーであるヤロー社とソーニクロフト社に駆逐艦を発注して比較研究を行なっていた。ヤロー社で建造していた駆逐艦にじがちょうど竣工し、受領して日本に回航する役割が財部に与えられた。わずか300トン、長さ67メートル、乗員50名の小艦をイギリスから日本まで無事に届けるのは簡単ではない。ソーニクロフト社製の薄雲うすぐもとともにイギリスを発ったのが明治33(1900)年2月11日、横須賀に到着したのは5月26日だった。7月4日、財部は霓を退艦して艦長を後任者に明け渡し常備艦隊参謀に転じた。財部が苦労して運んできた霓は北清事変のため中国大陸軍方面に出動したが7月29日に座礁、救難を断念して船体は放棄された。
 明治34(1901)年には軍令部に移り、その後日露戦争を終えるまでほぼ軍令部で勤務した。日露戦争直前の明治36(1903)年9月26日に海軍中佐に、戦争中の明治38(1905)年1月12日に海軍大佐に昇進した。日露戦争では大本営海軍部幕僚として東京にあって伊東いとう祐亨すけゆき軍令部長、伊集院いじゅういん五郎ごろう軍令部次長、山下やました源太郎げんたろう先任参謀の下で全般作戦の指導にあたった。

海軍次官

 日露戦争後も財部はしばらく軍令部に勤務し、明治40(1907)年にはイギリスに半年ほど派遣されている。その後軍令部を離れて巡洋艦宗谷そうや艦長、戦艦富士ふじ艦長、第一艦隊参謀長(司令長官伊集院五郎中将)を歴任し、明治42(1909)年12月1日に海軍少将に昇進、加藤かとう友三郎ともざぶろうにかわって海軍次官に任じられる。
 財部は山本権兵衛の娘婿になったことによって親王並みの速度で昇進したため「財部親王」と呼ばれたといわれる。例えば同期生で卒業成績が3位の竹下たけしたいさむと比べてみると中佐までは昇進は同時である。しかしそこから大佐昇進までは1年4月しかかかっておらず、異様だ。竹下の大佐昇進は財部に2年半遅れた明治40(1907)年9月28日である。少将昇進は大正2(1913)年5月24日で3年半遅れである。将官以降は抜擢人事はなくなり先任順に昇進することになるが大佐への早い昇進が効いて、大体2-3年早く海兵12-13期生のクラスヘッドと並んで昇進している。財部の昇進の早さは大佐への昇進で目立つものの、それ以外は特に例外的に早いというわけではないようだ。

 海軍少将昇進と同時に海軍次官というのは後世の目から見れば異例だが、その前の斎藤さいとうまことや加藤友三郎と比べると特に異例というほどではない。財部次官は斎藤大臣とともに軍備充実に取り組んだ。大正2(1913)年12月1日には海軍中将に昇進したが、直後に発覚したジーメンス事件で舅の山本権兵衛が率いる内閣は倒れ、八代やしろ海軍大臣の手で山本、斎藤前大臣は予備役に編入される。財部も次官を退任となり、役職のない待命をおおせつけられた。

雌伏

 1年近くの待命ののち、大正4(1915)年2月5日に補せられたのは中国大陸警備にあたる第三艦隊司令官だった。同年12月13日には旅順要港部司令官、大正5(1916)年12月1日には無任所に近い海軍将官会議議員、大正6(1917)年12月1日には舞鶴鎮守府司令長官、大正7(1918)年12月1日には佐世保鎮守府司令長官に補せられる。一見して順調に経歴を加えているように見えるが、東京中央での勤務がまったく含まれていないのが目立つ。第一次世界大戦の最中にあって、財部を海軍中央の政策決定から排除していることが明白だ。かといって馘(予備役編入)にまでされていないということは、当時海軍大臣だった加藤友三郎の配慮があったのかもしれない。馘にもならず、かといって中央に呼ばれるわけでもない飼い殺しのような状態がしばらく続いた。
 それでも遅い歩みであったが状況は徐々に改善してきた。大正8(1919)年11月25日には海軍大将に昇進している。同期生の中では最初の海軍大将であり、中将から大将への昇進は特に遅いわけではなく、有馬ありま良橘りょうきつ山屋やまや他人たにんと同時だった。大正11(1922)年7月27日には鎮守府の中では格がもっとも高く東京を警備区域にもつ横須賀鎮守府司令長官に親補された。完全に名誉回復がなされたといえる。

海軍大臣

 大正11(1922)年6月12日、財部の前に海軍次官をつとめていた加藤友三郎が内閣総理大臣に就任した。はじめのうち加藤は海軍大臣を兼ねていたが、首相との兼任には無理があり体調の悪化もあって兼任をやめて内閣総理大臣に専念することになった。海軍大臣の候補として横須賀鎮守府司令長官というのは有力だった。もともと東京に近く、格としても申し分なく、鎮守府司令長官は実戦部隊を率いているわけではないので年度の途中で交代しても影響は少ない。ましてや財部は海軍省勤務の経験は長く、加藤首相とも気心は知れている。大正12(1923)年5月15日、ほぼ9年ぶりに海軍省に戻った財部は海軍大臣に親任された。
 加藤首相はそれからわずか3ヶ月後の8月24日に現職のまま死去してしまうが、後継首相となったのが加藤の師匠筋で財部の舅である山本権兵衛であり、問題なく留任となった。山本内閣の組閣作業中に関東大震災が発生し、内閣はその対応に忙殺されたが、大正13(1924)年1月7日、虎ノ門事件で山本内閣は総辞職する。財部も海軍大臣を退任することになり村上格一に譲って軍事参議官に転じた。
 ところが後継となった清浦きようら内閣は政党や議会に基礎を置かない官僚内閣で、陸海軍大臣を除く閣僚全員が爵位を持っていることが示すように民意を得ない非立憲内閣であると批判され大規模な大衆行動を引き起こした。5ヶ月で清浦内閣は総辞職し、6月11日議会与党の憲政会総裁の加藤かとう高明たかあきを首班とする連立政権が樹立された。海軍大臣には再び財部が返り咲くことになる。
 ワシントン軍縮条約で主力艦の建造は停止されることになったが、国防に責任がある海軍としては単純に既存計画から主力艦を引き算してよしとするわけにはいかなかった。主力艦の保有量を制限された前提でのあり得べき兵力を計画策定してその整備に取りかかる。大正13(1924)年9月、巡洋艦などの補助艦の建造と、航空隊の増強のための追加予算が議会に提出された。与党が多数を占める議会はこれを承認する。同じ政党が内閣と議会多数派を占める政党内閣はむしろ予算要求が通りやすかった。安定した政治状況に支えられて財部率いる海軍省は主力艦以外の戦力増強を押し進める。
 連立内閣はやがて少数派だった政友会が離脱して憲政会の単独与党となる。加藤首相が病死して若槻わかつき礼次郎れいじろうが後継内閣を組織したが総選挙で敗れ総辞職する。昭和2(1927)年4月20日、政権は政友会の田中たなか義一ぎいち(予備役陸軍大将)の手に移り、同期生の岡田おかだ啓介けいすけが海軍大臣に就任することになって財部は軍事参議官に移った。
 昭和4(1929)年7月2日、張作霖ちょうさくりん殺害事件の対応を昭和天皇に叱責された田中首相は総辞職し、民政党(もと憲政会が改称)の浜口はまぐち雄幸おさちが組閣する。財部が海軍大臣に復帰した。意図してかどうかわからないが、財部は憲政会・民政党内閣担当の海軍大臣であった感がある。浜口内閣での財部はロンドン軍縮会議に振り回されることになる。
 ロンドン軍縮会議は巡洋艦など補助艦の制限を主な目的としてイギリス政府が提案した。これ以前にジュネーブで軍縮会議が開かれていたが英米の意見対立により決裂していた。ワシントン軍縮条約では制限されていなかった補助艦艇の総量規制を定めようというものである。
 ロンドン軍縮会議は偶然にも世界恐慌と同時並行して進行することになる。イギリスの招待状が届いたのが10月7日、日本政府が受諾の返事をしたのが16日、ニューヨークで株価が暴落して恐慌が始まったのが24日、財部が全権に任じられたのが11月8日、ロンドンで会議が始まったのが翌昭和5(1930)年1月21日だった。浜口内閣は政友会の積極財政に対抗して緊縮を掲げておりもともと軍縮に積極的だったが、恐慌によって国民負担の軽減がさらに求められるようになり政府の方針として妥結をめざした。
 一方で兵力の運用を担当する海軍軍令部では、ワシントン条約で対米六割に兵力が制限されたことが不満であり、少なくとも対米七割でなくては国防に責任が持てないとしてこの要求の貫徹を求めた。この最低要求が満たされないのであれば決裂も辞さないという強硬な態度だった。当時の海軍軍令部長はワシントン軍縮会議で首席随員だった加藤かとう寛治ひろはるである。その下でもっとも強硬だったのは次長の末次すえつぐ信正のぶまさといわれている。板挟みにあって苦しんだ財部だったが、米英との交渉は主力艦の新造停止を5年延長、重巡洋艦では対米六割、ただしアメリカは新規建造を抑制して当面は七割になるようにする、補助艦艇全体では対米比率 0.6975 でまとまった。あと少しだから切りがよい七割まで交渉しようという意見もあったが、実質的に七割と言え、しかし譲歩した印象が得られる数字だからこれでいこうという意見が通り、本国にこれで調印したいと報告した。
 日本では浜口首相が海軍大臣事務管理をつとめていたが実質的に海軍省をしきっていたのは山梨やまなし勝之進かつのしん海軍次官であり、政府とともに調印の方向で動き始めたが、それに異を唱えたのが軍令部だった。しかし山梨は兵力量の決定は海軍省の責任であるとして押しきり、軍令部も航空隊などの兵力整備を条件につけて同意した。海軍の重要政策や重要人事について了承を得ることが慣例になっていた東郷とうごう平八郎へいはちろう元帥も「やむを得ない。訓練に制限はない」と容認した。ロンドンにむけて「調印せよ」との訓令が送られ、軍縮条約は調印された。
 ところが日本ではまだ諦めていない勢力があった。おそらく軍令部次長の末次信正が中心になって批准を阻止する運動が水面下ではじまった。帝国議会で野党政友会の代議士鳩山はとやま一郎いちろうが、海軍軍令部の同意を得ないまま調印したのは憲法第11条で定めた天皇の大権である統帥権を政府が犯すもので憲法違反ではないかという批判を提起した。この統帥権干犯問題はたちまち政治問題化した。議会では政友会の鳩山一郎や犬養いぬかいつよしが政府を厳しく攻撃した。新聞もこの問題を連日大きく報じた。一度は了承したはずの東郷元帥も反対に転じた。財部がロンドンにイネ夫人を伴ったことについても「いくさにかかあを連れていく奴があるか」と批判した。外交の場では夫人同伴の慣例があることなどは省みられなかった。国内の不穏な情勢をみて帰国を延期していた財部は5月19日に帰国した。
 6月、海軍省と軍令部の対立は頂点に達していた。末次次長にけしかけられた加藤軍令部長は昭和天皇に謁見して批准しないよう求めた。10日、末次次長と山梨次官は喧嘩両成敗の形で更迭され、加藤軍令部長も11日に辞職して谷口たにぐち尚真なおみ大将に交代した。急進派の末次と加藤が退けられて多少情勢は沈静化し、議会の可決を経て条約は枢密院の諮詢をうけ、昭和天皇が批准した。その翌日、10月3日に財部は海軍大臣を辞任した。

 その後11月14日には浜口首相が暴漢に教われて重傷を負い、統帥権干犯で政府を追及した犬養毅は515事件で命を落とすことになるのだがそれは財部とは関係のない話である。
 軍事参議官に移った財部だが昭和7(1932)年4月7日に後備役に編入されて現役を離れた。昭和12(1937)年に退役になり、戦後の昭和24(1949)年1月13日、肝臓癌のため死去。満81歳。海軍大将従二位勲一等功三級。

海軍大将 財部彪 (1867-1949)

おわりに

 財部彪は、山本権兵衛の娘婿で分不相応の出世をしたとか、ロンドン軍縮条約で海軍をふたつに割ったとかあまり印象は良くないようですが、そこまで責められることはないような気がします。山本、斎藤、加藤などと比べると小粒なのは確かですが比較するのも酷でしょう。
 海軍大臣の職務でもっとも重要なのは予算を出して通過させることだと思った回でした。

 次回は村上格一になります。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は日清戦争中に乗り組んでいた巡洋艦高雄。本当は駆逐艦霓を探したのですが見つからず)

附録(履歴)

慶応 3(1867). 4. 7 生
明22(1889). 4.20 海軍少尉候補生 金剛乗組
明23(1890). 3.14 高千穂乗組
明23(1890). 7. 9 海軍少尉 高千穂航海士
明24(1891). 7.23 松島回航事務取扱委員
明24(1891). 8.28 松島航海士
明24(1891).12.14 仏国出張被仰付
明25(1892).10.19 帰着
明25(1892).12.21 海軍大学校丙号学生
明26(1893).12.19 松島航海士
明27(1894). 2.22 高雄分隊長心得
明27(1894).12. 7 海軍大尉 高雄分隊長
明28(1895). 6.12 高雄分隊長兼航海長
明28(1895). 7.29 高雄航海長兼分隊長
明28(1895). 9. 6 常備艦隊参謀
明30(1897). 6.26 英国留学被仰付
明32(1899). 4.25 英国駐在被仰付
明32(1899). 7.25 水雷艇霓回航委員長
明32(1899). 9.29 海軍少佐
明32(1899).10. 6 横須賀水雷団第二水雷艇隊艇長
明33(1900). 5.15 横須賀水雷団第一水雷艇隊艇長
明33(1900). 5.26 帰着
明33(1900). 6.22 霓艦長
明33(1900). 7. 4 常備艦隊参謀
明34(1901). 1.18 海軍軍令部第二局局員
明35(1902). 3.17 常備艦隊参謀
明35(1902).12.25 海軍軍令部第二局局員
明36(1903). 9.26 海軍中佐
明36(1903).12.28 海軍軍令部参謀
明37(1904). 2.11 海軍軍令部参謀/戦時大本営海軍部参謀
明38(1905). 1.12 海軍大佐
明38(1905).12.20 海軍軍令部参謀
明40(1907). 1.17 英国差遣被仰付
明40(1907). 8. 7 帰朝
明40(1907). 9.28 宗谷艦長
明41(1908). 9.15 富士艦長
明41(1908).12.10 第一艦隊参謀長
明42(1909).12. 1 海軍少将 海軍次官・海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長
明43(1910). 4. 1 海軍次官・海軍将官会議議員
明44(1911). 1.18 海軍次官・海軍将官会議議員/海軍臨時建築部長
大 2(1913).12. 1 海軍中将
大 3(1914). 4.17 免海軍次官 海軍将官会議議員
大 3(1914). 5.11 待命被仰付
大 4(1915). 2. 5 第三艦隊司令官
大 4(1915).12.13 旅順要港部司令官
大 5(1916).12. 1 海軍将官会議議員
大 6(1917).12. 1 舞鶴鎮守府司令長官
大 7(1918).12. 1 佐世保鎮守府司令長官
大 8(1919).11.25 海軍大将
大11(1922). 7.27 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
大12(1923). 5.15 免本職兼職 海軍大臣
大13(1924). 1. 7 免海軍大臣 軍事参議官
大13(1924). 6.11 免本職 海軍大臣
昭 2(1927). 4.20 免海軍大臣 軍事参議官
昭 4(1929). 7. 2 免本職 海軍大臣
昭 4(1929).11.18 ロンドン軍縮会議全権被仰付
昭 5(1930). 5.19 帰国
昭 5(1930).10. 3 免海軍大臣 軍事参議官
昭 7(1932). 4. 7 後備役被仰付
昭12(1937). 4. 7 退役被仰付
昭24(1949). 1.13 死去

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