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支那方面艦隊司令長官伝 (6)野村吉三郎

 歴代の支那方面艦隊司令長官について書いていますが、前身の第三艦隊司令長官もとりあげます。今回は野村吉三郎です。
 総説および前回の記事は以下になります。

済遠航海長

 野村のむら吉三郎きちさぶろうは明治10(1877)年12月16日に紀伊和歌山藩士だった塩田家に生まれた。同じく和歌山藩士の野村家に養子に入る。海軍将校をめざして江田島の海軍兵学校に入校したのは日清戦争が終わった翌年のことである。明治31(1898)年12月13日に第26期生59名のうち次席で卒業して海軍少尉候補生を命じられた。首席は木原きはら静輔せいほ、3位は小林こばやし躋造せいぞうだったが、木原が若くして現役を退いたため野村が実質的な首席となる。第26期生の候補生たちはコルベット金剛こんごう比叡ひえいに分乗して北米西岸への遠洋航海をおこなった。野村は比叡に乗り組んだ。帰国すると戦艦八島やしまに配属され、明治33(1900)年1月12日に海軍少尉に任官した。戦艦三笠みかさの受領のためにイギリスに派遣された回航委員のひとりとして渡英、乗組士官として三笠を日本まで運んだ。この間、明治34(1901)年10月1日に海軍中尉に進級する。帰国すると砲艦摩耶まや分隊長、コルベット金剛航海長を経て装甲巡洋艦常磐ときわ分隊長に補せられ、明治36(1903)年9月26日に海軍大尉に進級して日露戦争を迎えた。常磐が所属した第二艦隊はウラジオストクを基地とするロシア巡洋艦隊の追跡に苦労したが、蔚山沖海戦でようやく打撃を与えることに成功する。その後野村は三等海防艦済遠さいえんの航海長に転じた。済遠は日清戦争で捕獲した防護巡洋艦で、当時すでに旧式だったがこうした艦艇も旅順封鎖に駆り出されていた。着任から1ヶ月ほどたった11月30日、済遠は機雷に触れて沈没する。野村航海長は救助され、翌年はじめの異動で聯合艦隊附属の仮装砲艦京城丸けいじょうまる航海長に補せられた。近海の警戒にあたり日本海海戦には直接参加していない。海戦後に巡洋艦高千穂たかちほ航海長に転じたが、戦争の山は越えていた。
 戦後は海軍兵学校教官を経て巡洋艦橋立はしだて航海長に補せられる。橋立は練習艦隊に属しており、野村は明治40(1907)年の遠洋航海に参加した。富岡とみおか定恭だやす》司令官のもと、第34期の候補生を乗せてハワイ、オーストラリア、東南アジアを巡った。横須賀鎮守府参謀、巡洋艦|千歳ちとせ航海長のあと、オーストリア=ハンガリー帝国駐在を命じられる。このころ海軍大学校入校が決まっていたが、オーストリアに派遣されることになって沙汰やみになったと伝わっている。結局、野村は海軍大学校甲種学生課程を受けることはなかった。昭和期の高級将校としては珍しい。オーストリアは現在では内陸国だが当時はアドリア海に面しておりイタリアに対抗して小規模だがバランスのとれた艦隊を保有していた。明治41(1908)年9月25日に海軍少佐に進級し、ドイツに移った。
 3年あまりの海外勤務を終えて巡洋艦音羽おとわ副長のあと、海軍省軍務局局員に補せられ、さらに海軍省副官・海軍大臣秘書官を兼ねた。当時の海軍大臣は斎藤さいとうまことである。大正2(1913)年12月1日に海軍中佐に進級してまもなくジーメンス事件が発覚し、大正3(1914)年4月には海軍省首脳が総入れ替えになる。海軍大臣も八代やしろ六郎ろくろうに代わったが、野村秘書官は少なくとも当面は残った。年末近くにアメリカ駐在大使館附武官に転じる。第一次世界大戦はすでに始まっていたが、アメリカは中立を維持していた。大正6(1917)年4月1日に海軍大佐に進級した直後にアメリカは連合国側で参戦した。野村はその動きを現地で観察する。

海軍省副官

 帰国していったんは装甲巡洋艦八雲やくも艦長に補せられた野村だが、まもなく第一次世界大戦の休戦が成立すると艦をおりてヨーロッパ出張を命じられる。やがてヴェルサイユで開かれる講和会議で日本政府全権の随員を命じられた。アメリカ駐在が長く、ドイツ駐在の経験もあった野村の経歴が買われたのだろう。講和条約の締結をみて帰国し、海軍省先任副官としてときの海軍大臣加藤かとう友三郎ともざぶろうに仕えた。ワシントン軍縮会議が開かれて加藤海軍大臣が全権として渡米すると野村も随員として随行した。
 大正11(1922)年6月1日に海軍少将に進級すると海軍軍令部で海外情報を担当する第三班長に命じられた。1年あまりつとめて第一遣外艦隊司令官に転出する。当時、海外警備のために第一遣外艦隊が編成されていた(第二遣外艦隊は名称のみで当時は編成されていない)。第一遣外艦隊は揚子江周辺の華中地方を担当したが艦隊でありながら司令官が長とされ小規模な部隊だったことがうかがわれる。この時期の中国は軍閥が割拠しており、華南に拠る孫文が北伐を宣言するが実現しないまま北京で客死したのも野村が司令官にあった時期になる。帰国後は海軍省教育局長のあと、海軍軍令部次長に補せられる。当時の海軍大臣は財部たからべたけし、海軍軍令部長は鈴木すずき貫太郎かんたろうだった。海軍省と海軍軍令部の両方でこうした要職を経験するのは珍しい。

第三艦隊司令長官

 大正15(1926)年12月1日には海軍中将に進級し、昭和4(1929)年度に軍令部次長を末次すえつぐ信正のぶまさに譲って練習艦隊司令官に転じた。この年の練習艦隊は磐手いわて浅間あさまで編成され、海兵第57期、海機第38期、海経第17期の候補生を乗せてパナマ運河経由でアメリカ東海岸を訪れた。帰国後は海軍軍令部出仕にあって無任所に置かれたが、結果としてちょうど起きていたロンドン軍縮会議問題に巻き込まれずに済んだ。この騒ぎで海軍軍令部長が交代すると谷口たにぐち尚真なおみのあとをついで呉鎮守府司令長官に親補される。昭和7(1932)年度には横須賀鎮守府司令長官に転じた。すでに始まっていた満州事変について海軍は積極的には関与して来なかったが、中国における拠点である上海に事変が飛び火すると傍観できず、第一遣外艦隊を基幹として戦力を増強した第三艦隊が編成されて野村が司令長官に親補された。上海では海軍陸戦隊や航空隊の行動が大きく取り上げられこれまでの戦争とは違った様相を呈したが、早期停戦を望む天皇の意向もあり3月はじめには停戦に至った。4月29日、上海で開かれた天長節の式典に爆弾が投げ込まれ、白川しらかわ義則よしのり・陸軍上海派遣軍司令官は重傷のち死亡、重光しげみつまもる公使(のち外務大臣)は片足を失い、野村も右目を失明した。野村はいったん軍事参議官に移り、回復後に横須賀鎮守府司令長官に復帰した。第三艦隊はこのあと常設されるようになり日中戦争を迎える。なお上海事変は満州事変から列国の関心をそらすために日本陸軍が謀略によって引き起こしたものだった。
 昭和8(1933)年3月1日に海軍大将に親任され、年度末に軍事参議官に移って第一線を退いた。二二六事件後の粛軍でも現役に残ったが、皇太子(現在の上皇陛下)が入学を予定していた学習院の院長に就任することになり昭和12(1937)年4月6日に予備役に編入されて59歳で現役を離れた。
 学習院長を2年あまりつとめた頃、阿部あべ信行のぶゆき内閣で首相が兼ねていた外務大臣に専任者をあてることとなり、海外経験が豊富な野村が選ばれた。当時陸軍は外務省出身者の排除を要求していた。海軍で1期下の山梨やまなし勝之進かつのしんに学習院長を譲って外務大臣に就任したが、4ヶ月で陸軍に内閣が倒されてほとんど何もできずに退任した。
 その後、近衛内閣で駐米大使に起用されてワシントンに赴任する。駐米武官当時、海軍次官だったルーズベルト大統領と深交があったことから対米関係改善を期待されたとされるが、日米関係はもはやそのような個人的な関係でどうにかなるようなものではなかった。1年後、野村は対米宣戦布告をハル国務長官に手渡すことになる。野村は抑留され、交換船で翌年帰国した。昭和19(1944)年には枢密顧問官に親任されるが終戦後に公職追放に遭い辞任。追放解除後、地元和歌山県から参議院議員に出馬して二期つとめた。なお海上自衛隊の創設に中心となって関わったことでも知られる。

 野村吉三郎は昭和39(1964)年5月8日死去した。享年88、満86歳。海軍大将従二位勳一等功二級。

 海軍大将 野村吉三郎 (1877-1964)

おわりに

 野村吉三郎は上海事変、日米開戦、海上自衛隊創設などの節目で登場するのでよく知られているのではないでしょうか。ひとことで海外経験が豊富といいますが実際にまとめてみるとこんなに多かったのかと思います。

 次回は左近司政三です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は野村が日露戦争中に航海長をつとめた三等海防艦済遠)

附録(履歴)

明10(1877).12.16 生
明31(1898).12.13 海軍少尉候補生 比叡乗組
明32(1899). 9. 2 八島乗組
明33(1900). 1.12 海軍少尉
明34(1901). 5. 1 三笠乗組(英国出張)
明34(1901).10. 1 海軍中尉
明35(1902). 5.18 帰朝
明35(1902). 9.10 摩耶分隊長心得
明36(1903). 1.23 金剛航海長心得兼分隊長心得
明36(1903). 7. 7 常磐分隊長心得
明36(1903). 9.26 海軍大尉 常磐分隊長
明37(1904).10.19 済遠航海長
明37(1904).12.13 佐世保鎮守府附
明38(1905). 1.12 京城丸航海長
明38(1905). 6.14 高千穂航海長
明38(1905).11.21 海軍兵学校航海術教官兼監事
明39(1906).10.25 橋立航海長
明40(1907). 8.26 横須賀鎮守府参謀
明40(1907).12.18 千歳航海長
明41(1908). 1.10 千歳航海長兼分隊長
明41(1908). 3. 3 墺国駐在被仰付
明41(1908). 9.25 海軍少佐
明43(1910). 5.23 独国駐在被仰付
明44(1911). 5. 9 帰朝被仰付
明44(1911). 9.13 音羽副長
明45(1912). 6.18 海軍省軍務局局員
大 2(1913). 2.26 海軍省軍務局局員/海軍省副官/海軍大臣秘書官
大 2(1913). 4.22 海軍省副官/海軍大臣秘書官
大 2(1913).12. 1 海軍中佐
大 3(1914).12.11 米国駐在帝国大使館附海軍武官
大 6(1917). 4. 1 海軍大佐
大 7(1918). 6. 1 帰朝被仰付
大 7(1918).10.18 八雲艦長
大 7(1918).11.10 海軍軍令部出仕兼参謀
大 7(1918).12. 3 欧州出張被仰付
大 8(1919). 2. 5 講和会議全権委員随員被仰付
大 8(1919).11.12 講和会議全権委員随員被免
大 9(1920). 4. 1 海軍省副官
大10(1921). 8.17 ワシントン軍縮会議全権随員被仰付
大11(1922). 6. 1 海軍少将 海軍軍令部参謀(第三班長)
大12(1923). 9.15 第一遣外艦隊司令官
大14(1925). 4.20 海軍軍令部出仕/海軍省出仕
大14(1925). 9.18 海軍省教育局長
大15(1926). 7.26 海軍軍令部次長
大15(1926).12. 1 海軍中将
昭 3(1928).12.10 海軍軍令部出仕
昭 4(1929). 2. 1 練習艦隊司令官
昭 5(1930). 1.15 海軍軍令部出仕/海軍省出仕
昭 5(1930). 6.11 呉鎮守府司令長官
昭 6(1931).12. 1 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
昭 7(1932). 2. 2 第三艦隊司令長官
昭 7(1932). 6.28 軍事参議官
昭 7(1932).10.10 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
昭 8(1933). 3. 1 海軍大将
昭 8(1933).11.15 軍事参議官
昭12(1937). 4. 6 予備役被仰付 学習院長
昭14(1939). 9.25 外務大臣
昭15(1940). 1.16 免外務大臣
昭15(1940).11.27 米国派遣特命全権大使
昭17(1942). 8.20 帰朝
昭19(1944). 5.18 枢密顧問官
昭21(1946). 6.13 免枢密顧問官
昭39(1964). 5. 8 死去


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