補足です。日本の海軍大将を出身地で分類してみました。
前回の記事は以下になります。
出身地
海軍大将の出身地を都道府県別にまとめてみた。だいたい本籍に一致するが、多少の注意がいる。例えば華族は東京在住が義務付けられているが本来の出身地とは異なる。特に本人ではなく祖先が爵位を得た華族は一律東京とされていることが多い。加藤隆義などが該当するがここでは広島とした。また旧幕臣で維新後静岡に移ったものの出身は東京か静岡か、旧会津藩士で維新後斗南に移ったもののの出身は福島か青森か、なども議論になり得る。が、統計上は大勢に影響がないので統一基準は設けなかった。
海軍大将77名の出身地は以下の通り。全体の分布を見るために北から順に並べた。県名の前の数字は順位である(上位10位まで)。
首位は鹿児島の17人で群を抜いている。最初の海軍大将である西郷から伊集院まで、皇族の威仁親王を除いて全員が鹿児島出身で、明治海軍でいかに薩摩閥が強かったかがうかがい知れる。薩摩出身でない海軍大将がはじめて出たときは、明治時代が終わるまで一月を切っていた。大正以降の鹿児島出身者は4人で、多い部類には入るが飛び抜けてはいない。
鹿児島に次ぐのは佐賀の6人になる。幕末の佐賀は薩摩に勝る海軍をもち、明治海軍にも一定の人材を供給したが佐賀藩出身者から海軍大将は出ていない。佐賀出身の海軍大将は全員が明治以降に海軍に加わったものである。佐賀閥はある程度の勢力を持っていたが、明治前半のそれと大正以降とでは意味合いがことなる。
3位には5人で東京と岩手が並ぶ。戊辰戦争当時、幕府海軍は装備でも人材でも他を圧倒していたが明治海軍では薩摩の後塵を拝することになった。加藤定吉を除くと全員が維新後の生まれで、単純に母数となる人口が多かったということと、首都東京で身近に政府や軍隊を見てきたということがこうした結果につながったのだろうか。
岩手県の旧領主だった南部家は戊辰戦争で朝敵となったが徹底抗戦せず恭順したことで存続を許された。明治海軍では冷遇されたがかえって反骨精神を呼んだのかもしれない。盛岡中学の出身者が多くその人脈で海軍に入ったものが多い。また5人中3人が海軍大臣をつとめている。
5位は4人で福井と広島である。福井出身者は閥と呼ばれるほどのまとまった集団ではなかったが一定の影響力を持った。北前船の伝統が影響したというのは福井県人の弁だが、評価は避けよう。福井県人に限らないが徳川時代の同藩意識というのは大正ごろまではかなり強く、昭和に入っても年配者では残っていた。福井藩という大藩ではなおさらである。旧藩主の松平春嶽が海軍入りを奨励していたという話が伝わっている。岡田と加藤という、部内での立場が真反対になるふたりがともに福井出身というのは興味深い。
広島藩出身者は明治初期にはあまり目立たないが新海軍に加わったものは意外に多い。瀬戸内海に面して海運に関心が高かったとも言えるが広島特有の条件でもない。加藤隆義の実家である船越家などが特に熱心だったことが影響しているだろうか。
全体を眺めてみるとまず旧朝敵の東北が意外に多く、関東は少ない。新潟は山本五十六だけである。北陸はある程度出ているが、中部や東海は低調である。関西はかなり少ないが、和歌山だけ多いのが目を引く。瀬戸内海沿岸では広島に加えて山口が多いがいずれも昭和期で長州閥とは関係ない。四国は高知以外は空白区である。鹿児島と佐賀という上位を抱える九州は大きな比重を占めて全体の3分の1に及ぶが内部を細かくみると偏りがある。北海道と沖縄はゼロである。自分の知る限り沖縄出身の海軍将官は少将ひとりだけ(漢那憲和)である。
おわりに
文中で何度も触れていますが、海軍大将は全部で77人、うち元帥は13人です。自分は全員の氏名と期別、大将進級日をほぼ暗記していますが我ながら記憶力の無駄遣いをしていると思います。覚えるつもりはなく気がついたら覚えてしまっていたのですが。
海軍中将は概数で500人、中将相当を含めると600人あまりというところでしょうか。海軍少将はそれぞれ1500人、2000人となりさすがに覚えてはいられませんが名前を聞けば大体は聞き覚えがあるくらいには知っています。カタログミリオタを馬鹿にできない生産性のない所業ですね。
なお陸軍大将は134人、うち元帥は17人。陸軍中将は概数2000人、陸軍少将は5000人で関心の違いもあってこっちはだいぶ怪しいです(それが普通)。
中将や少将、陸軍についても統計調査したいところですけどDB作ってプログラム書かないと無理ですかね。そこまでの時間も能力もありませぬ。
ではもし機会がありましたら次回お会いしましょう。
(カバー画像は最初の海軍大将で薩摩藩出身の西郷従道)
附録(海軍大将一覧、出身地付き)