軍令部総長伝(2) 中牟田倉之助
歴代の海軍軍令部長・軍令部総長をとりあげます。今回は中牟田倉之助です。
総説と前回の記事は以下になります。
朝陽船将
中牟田倉之助は天保8(1837)年2月24日に佐賀藩士である真木家に生まれた。同じ佐賀藩の中牟田家に養子に入る。幼名は武臣とされているが実名のように思える。ペリー来航による開国をうけて安政2(1855)年に幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、地理的にも近い佐賀藩は諸藩のなかでもっとも多い47名を派遣した。中牟田もそのひとりに含まれていた。その後、佐賀藩が設けた三重津海軍所で海軍の研究と要員の教育にあたる。戊辰戦争で佐賀藩は新政府軍のなかでもっとも有力な海軍力を提供した。中牟田は幕府から取得した朝陽の船将(艦長)として箱館に拠点を置く榎本軍と戦う。5月11日の総攻撃で陸上砲台にむけて砲撃を加えていた朝陽だったが、榎本軍の軍艦蟠龍からの命中弾が弾薬庫に入って爆沈してしまう。中牟田は救助されたが重傷を負った。
傷が癒えた中牟田は新政府海軍に出仕した。普仏戦争が起きて日本が局外中立を宣言し、品川や箱館、神戸、長崎の警備のために小艦隊が編成されるとその指揮官に指名される。これが日本海軍ではじめての艦隊といわれている。ただし実態は要地警備にあたるものでむしろ鎮守府に近い。それからまもなく海軍士官の階級が制定され、明治3(1870)年12月14日付で海軍中佐に任じられた。築地の海軍兵学寮の副校長にあたる権頭に移り、さらに校長に相当する兵学頭にのぼった。この間、明治4(1871)年8月5日に海軍大佐に、11月3日に海軍少将に進級した。これは日本海軍で最初の将官進級になる。当時の兵学校生徒には実戦経験者も多く、教官であっても実戦経験のない者をを見下す風があり反抗騒ぎもしばしば起きた。山本権兵衛も一時退寮している。実戦で重傷を負っている中牟田の経歴はこうした生徒を抑えるのに適していた。
明治8(1875)年に艦隊が廃止されて東西の指揮官がもうけられると長崎の西部指揮官にあてられた。品川の東部指揮官は伊東祐麿である。西南戦争では海軍省副官として東京にあった。当時の副官はのちのそれと異なり、3名置かれて海軍省の職務を三分し長官(海軍卿)の責任を分担した。戦後は横須賀の造船所長をつとめ、明治11(1878)年11月21日に海軍中将に進級した。このころの横須賀には造船所が置かれていたが東京湾方面での海軍の拠点は品川または横浜だった。当時唯一の鎮守府が横浜に置かれており東海鎮守府と呼ばれていた。明治13(1880)年に中牟田は東海鎮守府司令長官に補されたが、貿易港として発達しつつあった横浜に軍港の機能を同居させるのは、ひとつは運用の柔軟性、もうひとつは機密保持という点で問題があった。品川は東京への連絡は便利だが港湾としての能力は劣る。すでに造船所が置かれ、東京湾口に位置し、適度な湾入がある横須賀が新たな拠点に選ばれ、軍港の本格的な建設がはじまる。
横須賀鎮守府司令長官
明治17(1884)年、はじめて爵位が定められて華族の序列が新たに規定されると、これにあわせて勲功により士族や平民を華族に列するという運用がはじまった。こうした前例は過去にもあったがごく限られていた。維新に貢献した者、明治政府の有力者に爵位が授けられ華族に列せられるようになる。中牟田も子爵となった。明治19(1886)年に鎮守府が横須賀に移転し横須賀鎮守府と改称した。横須賀と東京の連絡のためには官設鉄道の横須賀線が敷設され、開業する直前に中牟田は呉鎮守府司令長官に転じる。
東京湾の拠点とは別に西部に鎮守府を置くことは長年の懸案だった。西南戦争以前から構想はあったが財政はそれを許さなかった。神戸や長崎が主な拠点となったがこれらの港はまず商業港だった。防御に優れた瀬戸内海は策源地に利用するのにもってこいだった。適地が探し求められ、三原などが挙げられたが最終的に呉が選ばれ、中牟田と同郷の真木長義(生家である真木家との関係はよくわからない)が建設にあたった呉軍港の設備が概略完成すると中牟田が初代司令長官にあてられた。神戸の小野浜造船所は閉鎖されて呉に移った。このとき同時に佐世保にも鎮守府が置かれている。
海軍軍令部長
3年あまり呉ですごして、明治25(1892)年に海軍参謀部長として東京に戻る。海軍参謀部は海軍の軍令機関として3年前に発足した海軍省の外局だが、部長は有地品之允や井上良馨がつとめていた。そこに有地や井上よりも格上になる中牟田があてられるようになったのはその重要度が増していることをあらわしていた。半年後に海軍軍令部に改編されることになるのはこうした流れと無関係ではない。海軍軍令部は海軍省から独立し、参謀本部と並んで天皇に直隷した。
明治27(1894)年、朝鮮半島に騒乱が起こり軍を派遣することになった。日本ではこの派遣は清国との戦争につながると理解しており、それを予期して戦時大本営が設置される。中牟田は海軍部次席幕僚として作戦指導にあたったが、戦争を見込んで外交工作や部隊展開といった準備が着々と進められるなか、開戦には否定的だった。古い海軍軍人である中牟田にとって日本は弱く、清国は強大だった。聯合艦隊が編成されて開戦が確実になると中牟田は更迭され、薩摩出身でもと海軍大臣の樺山資紀が特に現役に復帰して海軍軍令部長に補せられた。樺山はもともと陸軍軍人で少将のころに海軍に移ってきており純粋な海軍軍令部長としての能力は中牟田に及ばない。しかしいまは戦争に訴えるというぶれない態度がもっとも必要だった。
中牟田は現役にとどまったものの、枢密顧問官に任じられて事実上海軍を離れた。65歳だった海軍中将の現役定限年齢が63歳に短縮されたのは明治32(1899)年だった。その翌年に63歳に達した中牟田は後備役に編入されて現役を離れる。このころは一月分まとめて月初めに後備役編入の辞令が出されるという運用がされていたらしい。5年後、本来であれば退役となる時期は日露戦争の最中で戦時の措置として服役は延長された。しかし召集されることはなく戦後の明治38(1905)年10月19日に退役となる。
中牟田倉之助は大正5(1916)年3月30日に死去。享年80、満79歳。海軍中将正二位勲一等子爵。
おわりに
中牟田倉之助は明治前半の海軍でのいわゆる佐賀閥を代表する人物ですが、日清戦争直前に姿を消し薩摩の覇権が確立しました。
このあとの海軍軍令部長は樺山資紀、伊東祐亨、東郷平八郎、伊集院五郎と続きます。それぞれの記事は以下になります。
次回は島村速雄です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は新政府軍艦朝陽)
付録(履歴)
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