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聯合艦隊司令長官伝 (8)東郷平八郎

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は東郷平八郎です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

浪速艦長

 東郷とうごう平八郎へいはちろうは弘化4(1847)年12月22日に鹿児島で薩摩藩士の家に生まれた。幼名は仲五郎なかごろうといった。薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では藩の軍艦春日かすがに乗り組んで阿波沖海戦、宮古湾海戦、箱館戦争に参加した。維新後は新政府海軍に出仕し、イギリス留学を命じられる。イギリスでは海軍大学校への入校を望んだが許可されず商船学校で学ぶことになった。アジア人への差別に苦しんだとも伝えられ、もともと快活だった東郷がめっきり無口になったという。西南戦争の報せはロンドンで聞いた。郷里の先輩である西郷さいごうの挙兵に大いに悩んだがやがて反乱は鎮圧された。
 明治11(1878)年、かねてイギリスで建造されていた装甲艦が竣工するとそのうちの比叡ひえいに便乗して帰国することになる。帰国すると明治11(1878)年7月3日に海軍中尉に任官し、12月27日には海軍大尉に、翌明治12(1879)年12月27日には海軍少佐へと進級した。短期間で進級を重ねたのは、長年海外に留学していて年齢のわりに階級が低かったのを調整したのではないか。この間、装甲フリゲート扶桑ふそう乗組、再度の比叡乗組を経てコルベット迅鯨じんげい副長、砲艦天城あまぎ副長、砲艦第二だいに丁卯ていぼう艦長、ふたたび天城艦長と海上勤務を重ねた。
 明治18(1885)年6月20日に海軍中佐に進級し、神戸で建造されたコルベット大和やまとの初代艦長をつとめる。明治19(1886)年7月10日には中佐の階級が廃止されたのにともなって海軍大佐に任じられた。コルベット浅間あさま艦長、装甲コルベット比叡艦長を歴任して防護巡洋艦浪速なにわ艦長に補せられた。ほぼ海上勤務に終止し、ただし短期間呉鎮守府参謀長や呉海兵団長をつとめることもあった。ハワイ王国でアメリカ系住民が主導するクーデターが起きて女王が実権を奪われるという事件が起きたときには、東郷が指揮する浪速が派遣されて日系移民や居留民の保護に任じた。
 浪速艦長の職にあるあいだに日清戦争が始まった。伊東いとう祐亨すけゆき聯合艦隊司令長官のもとに坪井つぼい航三こうぞう司令官が率いる第一遊撃隊が編成され、高速な巡洋艦で構成された。浪速も第一遊撃隊に編入される。先行した第一遊撃隊はまず朝鮮仁川にある清国艦隊に向かい、陸軍部隊を上陸させ、清国艦隊を撃破した。この海戦で有名なのがイギリス商船高陞こうしょうの撃沈である。高陞は清国がチャーターして陸兵を朝鮮に送ろうとしていた。東郷はこれを臨検して兵士が乗船していることを確認し、捕獲しようとしたが清国兵がイギリス人船員を脅迫して降伏させなかった。浪速はイギリス船員に船を捨てるよう信号を送ったが清国兵はこれも許さなかったため、やむなく東郷は高陞を撃沈した。イギリス船員の多くは浪速に救助されたが清国兵の多くは犠牲になる。イギリス商船が撃沈されたことは外交問題になりかけるが、イギリスの国際法の大家が東郷の措置に問題はないと述べたことで沈静化した。浪速を含む第一遊撃隊は黄海海戦で清国北洋艦隊の周囲を巡って速射砲で攻撃を加えた。

舞鶴鎮守府司令長官

 威海衛が攻略されたあとの明治28(1895)年2月16日に海軍少将に進級して常備艦隊司令官に転じた。清国との戦闘はすでに山場を超えており、台湾平定が焦点になっていた。まず台湾海峡の澎湖諸島を攻略して拠点を確保した時点で聯合艦隊司令長官が交代し、あとは有地ありち品之允しなのじょうが指揮をとることになる。6月に台湾北端の基隆に上陸が行なわれ、現地の抵抗を排除しながら南下した。10月には抵抗軍は南部の高雄(当時は打狗と呼んだ)や安平に押し込められていた。東郷が率いる部隊は近海を封鎖しながら陸戦隊を上陸させて敵の退路を断とうとしていた。
 抵抗勢力の軍事指導者だったりゅう永福えいふくはイギリス商船で大陸に逃亡をはかっていた。東郷はその阻止をはかり、通報艦八重山やえやまに監視を命じる。八重山はイギリス商船テールズを臨検したが劉を発見できなかった。これはイギリスとの間にさらなる外交問題を引き起こした。イギリスの抗議を受けて海軍は有地長官、東郷司令官、八重山の平山ひらやま艦長を更迭した。

 東郷は海軍将官会議議員の辞令を受けたが事実上仕事はないも同然だった。3ヶ月後に海軍大学校長に補せられる。明治31(1898)年5月10日に甲種学生の教科の内容をはじめて定めた。5月14日に海軍中将に進級した。

 明治32(1899)年1月に佐世保鎮守府司令長官に補され、明治33(1900)年5月20日に常備艦隊司令長官に親補された。ちょうど北清事変の最中であり、東郷は早速部隊を北京の外港である大沽に派遣する。現地の状況はさらに緊迫の度を深め、派遣部隊では陸戦隊を上陸させてイギリス艦隊司令官の指揮下に編入し、列強諸軍と共同して砲台を占領した。しかし北京の占領は兵力不足で断念され、東郷は聯合艦隊主力を率いて現地に赴くことになった。また陸軍第五師団も派遣されることとなる。すでに兵力は十分となり、出羽でわ重遠しげとお司令官を残して東郷は帰国する。
 明治34(1901)年10月1日に舞鶴鎮守府司令長官に親補された。これは閑職で予備役前提の配置だったと言われることがあるが、それは話を面白くするための脚色であろう。日本海側に軍港を置くことはかねてから計画されていて、一時は能登半島の七尾港に内定したこともあったが、結局は舞鶴が選ばれた。日本海を挟んでウラジオストクに対する舞鶴の軍港整備は、日露戦争を控えた日本海軍では喫緊の課題だった。本当に不要だったらわざわざこのタイミングで新設されるはずもなく、その初代長官に選ばれたのが東郷であった。舞鶴軍港を一日も早く整備して機能を発揮させることが求められていた。東郷もその重任を自覚していたに違いないが、しかし海上勤務に戻りたいとも考えていただろう。

聯合艦隊司令長官

 日露間の情勢が緊迫を増していた明治36(1903)年10月19日に常備艦隊司令長官に親補される。戦時体制に移った12月28日には第一艦隊司令長官兼聯合艦隊司令長官と肩書きが変わる。山本やまもと権兵衛ごんべえ海軍大臣が東郷を起用したいきさつについてはあちこちで触れられているのでここでは割愛する。日露戦争の冒頭で日本海軍が狙っていたロシア旅順艦隊の早期撃破に失敗し、旅順港口の閉塞も成功せず、虎の子の戦艦6隻のうち2隻を機雷で失った。激励の意味があったのか、明治37(1904)年6月6日に海軍大将に親任される。山本と並んで日本海軍で五人目となる海軍大将だったが、東郷自身はそれどころでなかったのだろう。通例となっている天皇宛の御礼言上をおこなわず、こういうことにうるさい明治天皇が不機嫌になって山本大臣が弁明につとめたという話が伝わっている。
 8月に入って旅順艦隊は脱出をはかった。東郷は艦隊が旅順に逃げ込むのを阻止しようと退路を断ったが逆に逃走を許す形になり、ようやく追い付いて損害を与えたが結局は旅順に逃げ込まれてしまう。この黄海海戦以後、ロシア艦隊が出撃することはなくなったがだからといって封鎖を緩めるわけにもいかず、陸軍が旅順要塞を陥落させるまで続いた。旅順陥落後は大規模な人事異動がおこなわれ聯合艦隊でも参謀長が島村しまむら速雄はやおから加藤かとう友三郎ともざぶろうに代わったが、東郷は留任した。明治38(1905)年5月27日の日本海海戦では丁字を描くため敵前で順次回頭を敢行して「東郷ターン」と呼ばれた。大勝を得て凱旋した東郷は英雄になった。10月23日に横浜沖で挙行された凱旋観艦式では指揮官として御召艦浅間の明治天皇に供奉した。

凱旋観艦式での海軍首脳部記念写真。

前列左から、橋本正明少将(人事局長)、村上敬次郎主計総監(経理局長)、実吉安純軍医総監(医務局長)、伊集院五郎中将(軍令部次長)、上村彦之丞中将(第二艦隊長官)、東郷平八郎大将(聯合艦隊長官)、山本権兵衛大将(海軍大臣)、伊東祐亨大将(軍令部長)、片岡七郎中将(第三艦隊長官)、出羽重遠中将(第四艦隊長官)、斎藤実中将(海軍次官)、山下源太郎大佐(軍令部第一班長)
中列左から、加藤寛治少佐(海軍省副官)、増田高頼少佐(軍令部参謀)、山屋他人大佐(第四艦隊参謀長)、山本安次郎機関総監(聯合艦隊機関長)、藤井較一大佐(第二艦隊参謀長)、加藤友三郎少将(聯合艦隊参謀長)、斎藤孝至大佐(第三艦隊参謀長)、名和又八郎大佐(人事局局員)、高木七太郎中佐(軍令部参謀)、永田泰次郎中佐(聯合艦隊副官)、江頭安太郎大佐(軍令部第三班長)、舟越揖四郎中佐(人事局局員)、木佐木幸輔機関中監(人事局局員)
後列左から、佐野常羽少佐(軍令部副官)、丸山寿美太郎少佐(軍令部参謀)、森越太郎中佐(軍令部第二班長)、佐佐木高志少佐(軍令部副官)、飯田久恒少佐(聯合艦隊参謀)、財部彪大佐(軍令部参謀)、野間口兼雄大佐(海軍省副官)、竹内重利少佐(軍令部参謀)、小笠原長生中佐(軍令部参謀)、上泉徳弥大佐(軍令部参謀)、平賀徳太郎少佐(軍令部参謀)、田中耕太郎中佐(軍令部参謀)、谷口尚真少佐(軍令部参謀)

 明治38(1905)年12月20日に聯合艦隊が解散し海軍軍令部長に親補される。ほぼ現場勤務ばかりで海軍省や軍令部での勤務がほぼなかった東郷に適していたかどうかは疑問だが、日清戦争後に伊東聯合艦隊司令長官が海軍軍令部長に転じた前例にならったのだろう。実務は伊集院いじゅういん五郎ごろう、ついで三須みす宗太郎そうたろう次長が担った。明治40(1907)年9月21日には伯爵を授けられ華族に列せられた。これまで爵位をもたない士族だった東郷が一挙に伯爵を得たのは異例のことだった。
 前任の伊東が軍令部長を10年あまりつとめたのに対し、東郷は明治42(1909)年12月1日に軍令部長を伊集院に譲って軍事参議官に親補された。この時期に東伏見宮ひがしふしみのみや依仁よりひと親王しんのう(海軍少将)に従ってイギリスを訪ね、さらにアメリカにも足を伸ばしている。大正2(1913)年4月21日には元帥府に列せられた。このあと、皇太子(のち昭和天皇)の教育を担当する東宮御学問所総裁をつとめることになったが、学習院長の乃木のぎ希典まれすけほどの印象は皇太子には残らなかったようで名誉職の色彩が強かったようだ。

 大正時代半ばごろから東郷を神様扱いする風潮が生まれてきたが、昭和4(1929)年に井上いのうえ良馨よしか元帥が亡くなり、陸海軍を通じて最先任となるとそれに拍車がかかった。こうした神格化に貢献したのがかつての部下小笠原おがさわら長生ながなりで東郷を持ち上げる著作をいくつも発表した。海軍部内で重要な政策決定をおこなう場合には東郷元帥と伏見宮ふしみのみや博恭ひろやすおうの了解を得るという慣行ができ上がった。純粋な海軍指揮官の東郷にそうした資質が本当にあったかという点については疑問があるが、日露戦役の英雄である東郷に異論は挟めなかった。それがもっとも悪い形で現れたのがロンドン軍縮会議だった。一度は容認した東郷は一部の反条約派にけしかけられる形で反対に転じ、問題をややこしくした。

 東郷平八郎は喉頭癌で危篤に陥り侯爵に爵位をあげられたがその翌日、昭和9(1934)年5月30日に死去した。満86歳。特に国葬を賜った。元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵。

元帥海軍大将 侯爵 東郷平八郎 (1847-1934)

おわりに

 東郷平八郎はさすがに知らない人はあまりいないでしょう。ここではあえて有名な逸話については省略しました。それでも思ったより長くなってしまいました。

 次回は角田秀松です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は日本海海戦で聯合艦隊旗艦をつとめた戦艦三笠)

附録(履歴)

弘化 4(1847).12.22 生
明 3(1870).12.11 龍驤見習士官
明 4(1871). 3.12 英国留学被仰付
明11(1878). 1.31 比叡乗組
明11(1878). 5.23 帰朝
明11(1878). 7. 3 海軍中尉
明11(1878). 8.16 扶桑乗組
明11(1878).12.27 海軍大尉
明12(1879). 9. 5 比叡乗組
明12(1879).12.27 海軍少佐
明13(1880). 1. 5 迅鯨副長
明14(1881).12.27 天城副長
明16(1883). 3.12 第二丁卯艦長
明17(1884). 5.15 天城艦長
明18(1885). 6.20 海軍中佐
明18(1885). 6.22 海軍省主船局出仕
明18(1885). 7. 7 大和造船監督官
明19(1886). 5.10 大和艦長
明19(1886). 7.10 海軍大佐
明19(1886).11.22 浅間艦長/横須賀鎮守府兵器部長
明20(1887). 2. 2 浅間艦長
明22(1889). 7. 1 比叡艦長
明22(1889). 7. 2 浅間艦長
明23(1890). 5.13 呉鎮守府参謀長
明24(1891).12.14 浪速艦長
明27(1894). 4.23 呉鎮守府海兵団長
明27(1894). 6. 8 浪速艦長
明28(1895). 2.16 海軍少将 常備艦隊司令官
明28(1895).11.16 海軍将官会議議員
明29(1896). 3.23 海軍大学校長/海軍将官会議議員
明29(1896).11. 5 海軍将官会議議員
明31(1898). 2. 1 海軍大学校長/海軍将官会議議員
明31(1898). 5.14 海軍中将
明32(1899). 1.19 佐世保鎮守府司令長官
明33(1900). 5.20 常備艦隊司令長官
明34(1901).10. 1 舞鶴鎮守府司令長官
明36(1903).10.19 常備艦隊司令長官
明36(1903).12.28 第一艦隊司令長官/聯合艦隊司令長官
明37(1904). 6. 6 海軍大将
明38(1905). 6.14 聯合艦隊司令長官/第一艦隊司令長官
明38(1905).12.20 海軍軍令部長/海軍将官会議議員
明40(1907). 9.21 伯爵
明42(1909).12. 1 軍事参議官
大 2(1913). 4.21 元帥
昭 9(1934). 5.29 侯爵
昭 9(1934). 5.30 死去

※明治5年までは旧暦

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