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駆潜艇が特務艇から艦艇になった日

 日本海軍で駆潜艇が特務艇から艦艇に移された日を推定しました。

艦艇特務艦艇類別標準

 日本海軍では保有する艦艇にそれぞれ艦種を定めていた。例えば「長門ながと」は戦艦、「阿武隈」は二等巡洋艦、「吹雪」は一等駆逐艦といった具合である。この艦種を定義したのが艦艇特務艦艇類別るいべつ標準で、明治31(1898)年3月21日に軍艦及水雷艇ノ類別及等級がはじめて制定された。
 明治33(1900)年6月22日には艦艇類別標準がたつ号で定められ、大正9(1920)年4月1日にさらに特務艦艇類別標準が定められたが、いずれも大正13(1924)年12月1日に軍令ぐんれいである艦船令の別表に移された。
 類別標準は艦種を定義したものだが、それぞれの艦がどの艦種にあたるかの一覧表である艦艇類別等級表・特務艦艇類別等級表は、海軍部内かぎりの内令で定めていた。艦種そのものを改廃する(例えば巡洋戦艦を廃止する、航空母艦を新設するなど)場合は軍令の改正になるため官報に掲載されるが、個々の艦の艦種を変更する(例えば水上機母艦「千歳」を航空母艦に移すなど)場合は内令で行われ一般に公表されない。

駆潜艇を特務艇から艦艇に

 特務艦艇はまず特務艦と特務艇にわけられるが、特務艇の一種として駆潜艇くせんていが新設されたのは昭和8(1933)年5月22日のことである(軍令海第4号。23日公示)。駆潜艇には固有艦名は与えられず例えば「第一号駆潜艇」などと呼ばれた。
 昭和15(1940)年の後半に駆潜艇は艦艇に移され、特務艇である駆潜艇は駆潜特務とくむ艇と改称された。この変更は軍令である艦船令の別表の改正にあたるので官報に掲載されるのだが、この前後には一部の軍令で条文の官報掲載を省略している事例があり、艦船令も何度か改正されていること自体はわかるが改正内容は官報からは確認できない。具体的な条文は海軍公報に掲載され、例えば昭和16(1941)年6月26日軍令海第12号による艦船令の改正では特務艇に魚雷艇が追加されたことが確認できる。
 ところが、国立公文書館アジア歴史資料センターで参照できる防衛省防衛研究所所収の海軍公報は昭和15(1940)年後半の分が欠けておりこの時期の艦船令改正では具体的な条文は確認できない。

二度の艦船令改正

 この時期におこなわれ、条文が確認できない艦船令の改正は二回ある。昭和15(1940)年10月2日(10月3日公示)の軍令海第7号と、10月24日(10月25日公示)の軍令海第12号がそれである。
 既述の通り、それぞれの艦艇の艦種変更は類別等級表の改正になり内令で行われる。既存の駆潜艇が特務艇から艦艇に移されるので内令が出されたはずだが、これも昭和16(1941)年以降しか残っていない。手がかりになるのが内令堤要で、これは内令による変更をまとめたものであり、昭和15(1940)年6月25日と12月25日の版が残っている。この艦艇特務艦艇類別等級表を比較すると、このあいだに上記でのべたような駆潜艇の艦艇への移動と特務艇の駆潜特務艇への改称に加え、特務艇に電纜でんらん敷設ふせつ艇が追加されている。内容不明なふたつの艦船令改正のうち、どちらかが駆潜艇に関するもので、もうひとつが電纜敷設艇を追加したものだろう。

軍令海第7号

 推定するためのヒントはいくつかある。まず10月3日の官報には艦船令改正のほかに複数の軍令が掲載されている。要港部令中改定(軍令海第6号)、駆逐隊潜水隊水雷隊掃海隊令中改定(同第8号)、艦隊令中改定(同第9号)、警備戦隊令中改定(同第10号)、防備戦隊令中改定(同第11号)である。このうち要港部令については条文が掲載されているがそれ以外の軍令では省略されている。
 この中で注目されるのは駆逐隊(略)令の改定だろう。これは駆潜隊に関する記述を追加したものと想像される。のち昭和17(1942)年軍令海第4号では「駆逐隊潜水隊水雷隊掃海隊駆潜隊令中ヲ改定」とありこれ以前に駆潜隊の記述が加えられていることが確認できる。昭和15(1940)年軍令海第8号によるものと考えて間違いない。同時におこなわれた艦隊令・警備戦隊令・防備戦隊令の改定も駆潜艇が艦艇に移され、駆潜隊が新たにもうけられたことにともなうものと考えるのが自然である。
 傍証として昭和15(1940)年10月25日達第233号で雑役船初島丸を特務艇に編入して電纜敷設艇初島はしまと命名している。軍令海第12号で電纜敷設艇が特務艇に追加されたことにともなうものだろう。したがって軍令海第7号による艦船令の改定で駆潜艇が艦艇に移され、特務艇である駆潜艇が駆潜特務艇と改称されたと考えられる。

施行日について

 軍令は特に指定がないかぎりただちに施行するとされているが、昭和15(1940)年軍令海第7号については官報からはそうした付則の有無自体が確認できず、施行日は不明である。ただ同時に官報掲載された軍令海第6号(要港部令中改定)は施行日を11月15日としている。この改定は駆潜艇とは直接の関連はなく、施行日が異なっていても不思議ではないのだが、参考にはなるだろう。
 駆潜艇が特務艇から艦艇に変更されたとき、大部分はその艇名を保ったまま艦艇に移ったが、一部が特務艇にとどまり駆潜特務艇と改称した(第五十一ないし第五十三号駆潜特務艇。のち第二百五十一ないし第二百五十三号駆潜特務艇)ことが知られている。艦艇名の変更は達号で行われるが、幸いなことに達号はこの時期の分が残っている。10月25日達第231号で改名が行われているのが確認できるが施行日は11月15日と指定されている。断定はできないが軍令海第7号の施行日も11月15日である蓋然性が高い。

おわりに

 海軍の制度の歴史を調べるには「海軍制度沿革」を参照するのがいちばん手っ取り早いのですが、昭和13(1938)年ごろが記述の下限なのがネックです。これ以降は官報や内令、達号、海軍公報、辞令公報といった史料を参照することになるのですが、官報でも軍令の内容が省略されていることもあり、内令や海軍公報には欠落があります。特に昭和19(1944)年後半以降は欠落が多く、終戦時に処分されてしまったのでしょう。
 興味深いことに軍令の条文を官報に掲載しないという例は昭和15(1940)年から16(1940)年ごろに目立ち、開戦後の昭和17(1942)年以降はむしろ減ります(皆無ではありません)。この時期の海軍首脳部に神経質な人物がいたのかもしれません。及川海軍大臣でしょうか。
 念のため、内閣文庫の御署名原本も探してみましたが、勅令はありましたが軍令はみつかりませんでした。勅令が内閣総理大臣を経て上奏するのに対し、軍令は陸海軍大臣が直接上奏して内閣を経由しないためでしょう。軍令を考案したといわれる山県有朋を恨めしく思いました。

 海軍制度沿革や官報は国立国会図書館デジタルライブラリーのHPで参照できます。以前に比べて索引が充実して格段に検索しやすくなっていました。操作性はいまひとつですが。
 海軍の公文書は国立公文書館アジア歴史資料センターのHPで参照できます。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は第二百五十三号駆潜特務艇)

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