聯合艦隊司令長官伝 (20)栃内曽次郎
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は栃内曽次郎です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
海軍省副官
栃内曽次郎は慶応2(1866)年6月7日に盛岡南部藩士の家に生まれた。山屋他人や米内光政と同郷になる。栃内は一時札幌で学んだりしたが結局上京して築地の海軍兵学校に入校した。明治20(1887)年2月20日に海軍少尉候補生を命じられる。第13期生36名中の卒業成績は22位であまり高くはなかった。首席は伊藤乙次郎である。この期から遠洋航海は卒業後になるが、過渡期だったのかコルベット龍驤が品川沖を出航したのは2月1日で卒業直前になる。シンガポール、バタビア(現ジャカルタ)、オーストラリア西岸のアデレード、メルボルン、シドニー、ニュージーランドのオークランドを巡って9月に帰国した。
コルベット葛城に配属されて明治21(1888)年9月24日に海軍少尉に任官する。コルベット筑波分隊士、巡洋艦浪速分隊士、通報艦八重山分隊長を経験して海軍大学校の学生を命じられる。栃内が命じられた丙号学生はのちの甲種に通じる甲号学生とは異なり、少尉や候補生を対象とする短期間の課程でその内容は物理、代数、三角法、幾何、天文学といった一般教養だった。修了後は呉海兵団分隊長、ふたたび八重山分隊長ののち水雷術練習艦迅鯨で術科教育をうける。栃内は以後水雷屋の道を歩むことになる。明治24(1891)年12月21日に海軍大尉に進級して横須賀軍港司令官の伝令使(のちの副官に相当)に補せられる。水雷術練習艦迅鯨の分隊長兼教官として今度は水雷術を教える側にまわる。迅鯨は海軍水雷術練習所に改編されたので栃内も横須賀の練習所に移った。
日清戦争がはじまったときにはコルベット金剛の分隊長だった。金剛は当初艦隊に所属していなかったが8月に西海艦隊に編入された。20年前の設計である金剛はすでに戦闘艦としての価値はほぼなく、主に警備に従事した。旅順が陥落すると栃内は水雷敷設隊分隊長として防御のための機雷敷設をおこない、フリゲート扶桑水雷長に移る。扶桑も金剛とほぼ同年代である。当時日本海軍で唯一といえる装甲艦だったが黄海海戦で能力不足を露呈しその後西海艦隊に移されていた。聯合艦隊が解散されると水雷術練習所の教官に戻ったが、翌年には海軍省第一課に配属された。霞が関の中央官庁で勤務するのははじめてである。装甲巡洋艦浅間の受領のためにイギリスに派遣され、滞在中の明治31(1898)年10月1日に海軍少佐に進級した。帰国後は鮫島員規長官の下で常備艦隊副官をつとめたのち、海軍省副官兼海軍大臣秘書官に補せられた。当時の海軍大臣は山本権兵衛である。副官は政策決定に直接に携われるわけではないが大臣にもっとも近い位置で日々の執務を観察できる。明治33(1900)年9月25日に海軍中佐に進級した。
イギリス駐在武官
2年あまりの副官勤務を終えると艦隊に戻り、巡洋艦浪速副長、装甲巡洋艦出雲副長を経て通報艦宮古艦長で日露戦争を迎えた。宮古は第三艦隊に編入され、はじめ朝鮮海峡の警戒にあたったがのち旅順の封鎖にあてられた。明治37(1904)年5月14日、旅順付近で機雷の掃海をおこなっていた味方の防御にあたっていた宮古が逆に機雷に触れ、わずか数分で沈没した。戦死者2名と負傷者を出したが艦長の栃内は助け出され、同じ第三艦隊に属するコルベット武蔵艦長に補される。旅順陥落後の明治38(1905)年1月12日に海軍大佐に進級し巡洋艦須磨艦長に移った。日本海海戦では須磨は第三艦隊第六戦隊に属し東郷正路司令官の旗艦をつとめた。
戦争が終結すると同盟国イギリスに駐在武官として派遣される。日露戦争の戦訓は弩級戦艦を生み、弩級戦艦は英独間の建艦競争を激化させた。イギリスは次々に新機軸の主力艦を就役させ、ほんの数年前に就役した艦のみならず建造中にすでに時代遅れになるような艦が続出した。栃内のもっとも重要な任務がそうした最新状況を本国に伝えることだったのは間違いない。しかし日露戦争後の財政難に直面していた日本はイギリスやドイツ、アメリカなどに大きく遅れた。
前回、浅間回航委員長としてイギリスを訪れたときにはまずフネをきっちり完成させて日本に届けるという役割だったが、今回の駐在武官では情報収集が主任務となり必然的に人と関係を作ることが重要となる。階級社会のイギリスでは上流階級と交わるためにも社交能力が欠かせない。4年近くに及んだイギリス生活で栃内は洗練されたマナーを身につけた日本海軍きってのジェントルマンと呼ばれるまでになった。帰国後は装甲巡洋艦吾妻艦長に補せられるがわずか2ヶ月の明治42(1908)年12月1日に海軍少将に進級する。
海軍次官
将官に進級して海軍省軍務局長に補せられる。当時の海軍大臣は斎藤実、次官は財部彪である。兵学校で2期下の財部が上司ということになる。この時期は立ち後れていた主力艦の予算獲得に力が入れられ、のちの金剛級巡洋戦艦につながる予算増額などが処置された。2年半つとめて練習艦隊司令官に移り第40期の候補生とともに東南アジアからオーストラリアを巡った。帰国して大湊要港部司令官のあと横須賀海軍工廠長に補せられる。ちょうど国産初の超弩級主力艦である比叡を建造していた。大正3(1914)年5月29日に海軍中将に進級した直後に第一次世界大戦が勃発する。ドイツが租借していた青島の攻略に第二艦隊があてられることになり、加藤定吉長官の下で司令官をつとめることになる。しかしドイツ領南洋群島を攻略する南遣枝隊が編成されるとその司令官に山屋他人が転出して、あいた第一艦隊司令官に栃内が横滑りした。まもなく艦隊令が改定されて肩書きが戦隊司令官に変わる。
大正4(1915)年度末に艦隊をおりて海軍技術本部長に就任する。ジーメンス事件のあと海軍艦政本部を改編したものである。本部長時代は伊勢級などの超弩級戦艦の建造を監督した。大正6(1917)年に鈴木貫太郎のあとを継いで海軍次官に任ぜられる。海軍大臣は加藤友三郎だった。ちょうど八八艦隊予算が大詰めにあたっており、次官の栃内は大臣の加藤とともにしばしば帝国議会の予算審議で答弁した。
海軍次官の時期のある日の深夜、栃内は人力車に乗っていて交差点で出会い頭に自動車と衝突した。投げ出された栃内は自動車のフロントガラスに頭を突っ込み、大量出血した。病院に担ぎ込まれ、命に別状はなかったが右目を失明した。八八艦隊予算案が議会で承認された直後の大正9(1920)年8月16日に海軍大将に親任された。次官は海軍中少将があてられる規定で、当然のこととして交代になった。次官の後任は井出謙治となり、栃内は山屋に代わって第一艦隊司令長官に親補された。大正9(1920)年度は早くも5月に聯合艦隊が臨時編成されており両艦隊の長官を兼ねた。
栃内長官は酒豪で鷹揚だったがイギリス仕込みのマナーにはうるさかった。年度明けには戦艦長門が艦隊に編入されて栃内の旗艦となる。2年弱長官をつとめたが、始まりが年度の途中だったので終わりも年度途中になった。在職中にワシントン軍縮条約が締結されて栃内が成立に尽力した八八艦隊が実現しなくなったことには不満だったという。
艦隊をおりて佐世保鎮守府司令長官に親補され、1年弱で軍事参議官に移るがほどなく待命となり大正13(1924)年2月25日に予備役に編入されて現役を離れた。昭和6(1931)年6月7日に後備役に編入され、昭和7(1932)年3月に貴族議員に勅選された。
栃内曽次郎は昭和7(1932)年7月12日死去。満66歳。海軍大将従二位勲一等功四級。
おわりに
栃内曽次郎は大正時代の海軍をある意味代表する親イギリス派の提督です。名字の読みに「とちない」と「とちうち」の両派があるのですが、「とちない」が今は優勢のようですね。日本の公文書では名前の読みは決まっておらず、パスポートの表記が一番信用できるのですが見る術がありません。
次回は竹下勇です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は栃内が日本海海戦当時艦長をつとめた巡洋艦須磨)
附録(履歴)
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