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海軍大臣伝 (1)西郷従道

 初代海軍大臣の西郷従道はその直前まで陸軍卿で、陸軍中将の階級を持っていました。そうした人物が突然海軍大臣に就任できたのはそうした時代だったからとも言えますが、実はそれでも海軍大臣は勤まるという証拠でもあります。
 前回の記事は以下になります。

陸軍時代

 西郷さいごう従道つぐみちは薩摩藩の出身で天保14(1843)年5月4日生まれ、有名な西郷隆盛たかもりの弟で、兄を大西郷と呼ぶのに対し小西郷とも呼ばれた。通称を慎吾しんごという。兄隆盛は藩主島津しまづ斉彬なりあきらの信頼を得てその地位を上げたが、斉彬の急死にともなう藩内の主導権争いにまきこまれて失脚と復権を繰り返した。弟の慎吾もその影響を強くうけたが幕末には西郷が事実上薩摩藩の軍事指揮官をつとめるようになり、その下で戊辰戦争に従軍した。
 新政府では兵部省に出仕し、明治4(1871)年には陸軍少将に任じられた。このとき近衛都督の地位にあり政府の軍事力を握っていた西郷隆盛は陸軍少将に欠員があると聞いて「他に適切な人物がいないなら、慎吾に任せればいいだろう。あれなら陸軍少将くらいは勤まるだろうよ」と言ったという。明治6(1873)年の政変で西郷隆盛が下野し、薩摩出身者がこぞって鹿児島に戻る中、西郷従道は東京に残った。薩摩出身者の大量辞職で人員不足に陥った陸軍省の次官に相当する陸軍大輔に就任した。
 沖縄県の漁民が遭難して台湾に流れ着き、現地住民に殺害された事件をうけて、明治7(1874)年に台湾出兵がおこなわれた。日本政府からの抗議に対し清国政府は「問題の現地住民は中央政府の統治に従わない連中であるので政府の責任ではない」と回答した。当時の外交的な常識でも問題外の暴論であり、ならば日本が実力行使をしたとしても清国から文句をいわれる筋合いではないという主張があらわれるのは必然だった。琉球処分からまだ日も浅く、沖縄の統治権に疑議を抱かれるようなことは絶対に避けなければならず、断固とした対応が求められた。この役割を買って出たのが西郷従道で、自ら部隊を率いて台湾に渡った。この輸送を請け負ったのが三菱の岩崎いわさき弥太郎やたろうである。出港まぎわに列強の勧告をうけた中央政府から延期命令が届いたが西郷はそれを無視して出港、台湾に上陸し、伝染病で多大な犠牲を出しながら現地住民の討伐をおこなった。結局台湾出兵は清国が謝罪賠償することで決着した。この出兵にともない、西郷は陸軍中将に昇進している。
 明治10(1877)年におきた西南戦争では西郷従道は政府側につき、兄隆盛とは敵味方になる。はじめは陸軍卿代理として東京に留守して陸軍省を守ったが、最終的には前線に赴き、鹿児島城山にこもる薩摩軍を攻める政府軍を見下ろしながら「兄も今ごろは腹を切っておりましょう」とつぶやいたという。
 明治11(1878)年には現代の閣僚に相当する参議に就任、文部卿を兼ねた。やがて陸軍卿に移り、陸軍行政のトップに立つ。一時農商務卿に移るがまた陸軍卿に戻った。明治17(1884)年には維新以来の功績によって華族に列せられ伯爵を授けられる。このころには陸軍を事実上差配しているのは山縣やまがた有朋ありともで、大山おおやまいわお(西郷兄弟のいとこ)と西郷従道が支えていた。

海軍大臣

 明治18(1885)年12月22日、内閣官制が施行され第一次伊藤いとう博文ひろぶみ内閣が成立した。海軍大臣に就任したのは前日まで陸軍卿をつとめ現役の陸軍中将の階級をもつ西郷従道だった。それまで海軍卿をつとめていたのはやはり薩摩出身、天保7(1836)年生まれの海軍中将川村かわむら純義すみよしだった。川村は戊辰戦争に従軍したのち海軍に移り、西南戦争では征討総督府の海軍参謀をつとめ事実上の海軍指揮官だった。その後海軍卿に就任し前後6年つとめた。
 川村を退けて部外の西郷を起用した理由は判然としない。川村のはっきりと物をいう性格が嫌われたともいわれるがそれだけが理由とは考えにくい。前年にやはり陸軍少将だった樺山かばやま資紀すけのりが海軍大輔に送り込まれたことは無関係とは考えられず、一連の動きの一貫であっただろう。何らかの理由で海軍上層部の刷新を求める勢力があったことは間違いない。ではそれは陸軍か。一見そう考えそうだが、以降の展開をみると陸軍の影響力が増しているようには思えずむしろ海軍の自立性が強まっており、陸軍が意図的に人材を送り込んだようには思えないし、それを裏付けるような動きもない。西郷も樺山も薩摩出身だがその座を追われた川村も薩摩出身で、藩閥の争いという見方も成立しない。ひとつ考えられるのはこの前後に防護巡洋艦浪速なにわ高千穂たかちほをイギリスで建造していることで、これまでの軍艦とは本質的に異なる軍艦が日本海軍に加わるにあたり、古い知識を持ち続ける海軍上層部がかえって邪魔になったのではないか。こう考えると刷新を求める勢力は海軍内部にあったのかもしれない。

 現役の陸軍中将であった西郷が海軍大臣に就任したことでわかる通り、海軍大臣には特に資格条件はなかった。ほぼ三年後の明治21(1888)年12月25日には予備役に編入されるが海軍大臣の地位にも職務にもまったく影響はなかった。

軍備拡張

 この時期の日本は朝鮮をめぐって清国と勢力争いを繰り広げており仮想敵国は清国だったが、清国の北洋艦隊では主にドイツに軍艦を発注していた。その中でも定遠と鎮遠の姉妹艦は当時「東洋一の堅艦」と称され日本海軍には対抗できる艦もなく、対抗できる艦を取得できるカネもなかった。苦肉の策として計画されたのが三景艦で、防護巡洋艦の船体に32cm主砲を無理をして一門ずつ搭載して3隻で定遠と鎮遠に対抗しようとした。これは西郷大臣の時代に計画され、かろうじて日清戦争に間に合った。

 明治23(1890)年5月17日、海軍大臣を次官だった樺山資紀に譲って西郷は内務大臣に転任した。在任中に来日したロシア皇太子(ニコライ2世)を警護する警官が襲って負傷させた大津事件が起き、閣議で西郷は犯人の死刑を強硬に主張したが大審院に拒否されたことはよくしられている。警察を管轄する内務大臣だった西郷は引責辞任した。

 明治26(1893)年3月11日、海軍大臣に再任。直前にかねて懸案となっていた海軍拡張予算が成立しており、その執行にあたるがこれが実を結ぶのは日清戦争後になる。
 当時海軍省を切り回していたのは海軍次官兼海軍省軍務局長の伊藤いとう雋吉としよし中将ではなく、一介の大佐に過ぎない海軍省官房主事山本やまもと権兵衛ごんべえだった。山本と西郷の間には次の逸話が伝えられている。就任まもない西郷のために山本は海軍について説明する資料をまとめて西郷に提出した。山本が西郷に「お読みになりましたか」と尋ねると西郷は「読んだ。よくわかった」と答えたが、それを聞いた山本は色をなして「自分は海軍で身を起こして奉職すること20年あまりになります。その自分が何日もかけてまとめた内容を、失礼ながら昨日今日やってきて海軍のことを何も知らない閣下がわずか一晩で理解できるとは思えません」と怒ったという。しかし西郷は驚きもせず「なるほどもっともだ。もう一度読ませてもらおう」とその資料を持ち帰ったが数日後山本に「やっぱり読まなかったよ」と返した。さすがの山本も呆気にとられたが気を取り直して「読んでもわからんから万事任すということでしょうか。それならよくわかります」と答えると西郷は「まあそんなところだ」と返したという。有名な逸話だが疑問がある。山本が海軍省官房主事の時期に西郷が海軍大臣に就任したのは確かだが二度目で「はじめて」ではない。最初に海軍大臣に就任した明治18年には山本は艦隊勤務である。明治20(1887)年に海軍大臣伝令使(秘書官に相当)になっているが西郷が海軍大臣になって1年半あまりが過ぎており時期があわない。ただ逸話の真実性はともかくこういう話が伝わっているということはそれだけ西郷が山本を頼りにして任せていたことがよく知られていたのだろう。

日清戦争

 明治27(1894)年夏、日清戦争が勃発し戦時大本営が広島に置かれ西郷も明治天皇に従って広島に移る。黄海海戦で聯合艦隊が清国北洋艦隊に痛撃を加えてまもない10月3日、西郷は日本では最初の海軍大将に親任された。兄隆盛は日本で最初の陸軍大将で、兄弟で陸海軍大将の端緒を飾ることになった。翌年には威海衛で清国艦隊を壊滅に追い込み、下関条約で日本に有利な形で講和に持ち込んだものの三国干渉をうけて遼東半島を返還する。戦争に勝利しても日本海軍は気を緩めることができなかった。より強力なロシアが新たな仮想敵国として立ち塞がった。清国から得た賠償金の大半を注ぎ込んで軍備充実に邁進する。
 明治28(1895)年8月5日、日清戦争の功績により爵位を伯爵から侯爵に上げられる。明治31(1898)年1月20日、元帥の称号が定められ4人の陸海軍大将に授けられた。海軍から選ばれたのは西郷だけだった。それからまもない6月30日、日本で最初の政党内閣である第一次大隈おおくま重信しげのぶ内閣が成立したが、このときともに留任した陸軍大臣かつら太郎たろうに対して西郷は「自分はこの内閣は早晩内輪揉めを起こして瓦解するとみているので深入りはしないようにしましょう」と囁いたという。その観測は的中、大隈内閣は半年で総辞職し、11月8日に第二次山縣有朋内閣が成立した。この機に西郷は海軍大臣を山本権兵衛に譲って内務大臣に転任した。
 山本海軍大臣がその意を砕いていた海軍拡張において予算不足に困って内務大臣の西郷に相談すると「構わないから予算を流用して発注なさい。それが憲法違反だというなら二人で腹を切ればいい。我々が腹を切って国家が救われるなら本望じゃないですか」と助言したという話が伝わっているが真偽は不明である。

 明治33(1900)年10月19日、山縣内閣の総辞職にともない内務大臣を退任。明治35(1902)年7月12日、癌のため死去。満59歳。元帥海軍大将従一位大勲位功二級侯爵。

元帥海軍大将 侯爵 西郷従道 (1843-1902)

おわりに

 西郷元帥は日清戦争前後の海軍大臣として海軍の基礎を固めるのに大いに貢献した人物ですが海軍大将の階級を得ていながら海軍の軍服をほとんど着用したことがなかったといわれており政治家として海軍大臣をつとめていたという色合いが強い人物でした。それが後世にどれくらい受け継がれたかの評価は難しいものがあります。これ以降の海軍大臣は例外なく海軍軍人が就任するわけですが、とはいえがちがちの軍人気質ではつとまらない役職であったのも確かです。
 エピソードがたくさん伝えられている人物なので分量がものすごく多くなってしまいました。次回は多分半分、その次はさらに半分くらいになるかもしれません。ご了承ください。

 次回は樺山資紀になります。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は西郷海軍大臣の時期に就役した日本で最初の近代的巡洋艦浪速)

附録(履歴)

天保14(1843). 5. 4 生
明 3(1870). 8.22 兵部権大丞
明 4(1871). 7.28 陸軍少将 兵部大丞
明 4(1871).12. 4 兵部少輔
明 5(1872). 2.27 陸軍少輔
明 5(1872). 3. 9 陸軍少将 陸軍少輔/近衛副都督
明 5(1872). 8. 9 陸軍少輔
明 6(1873). 7. 2 陸軍大輔
明 7(1874). 4. 4 陸軍中将
明10(1877).11.26 近衛都督
明11(1878). 5.24 参議/文部卿
明11(1878).12.24 参議/陸軍卿
明13(1880). 2.28 参議
明14(1881).10.21 参議/農商務卿
明15(1882). 1.11 参議/農商務卿/開拓長官
明17(1884). 2. 1 参議/陸軍卿
明17(1884). 7. 7 伯爵
明18(1885).12.22 海軍大臣
明19(1886). 3.16 海軍大臣/農商務大臣
明19(1886). 7.10 海軍大臣
明21(1888).12.25 予備役被仰付
明23(1890). 5.17 内務大臣
明24(1891). 6. 1 免内務大臣
明25(1892). 1.28 枢密顧問官
明25(1892). 6.30 免枢密顧問官
明26(1893). 3.11 海軍大臣
明27(1894).10. 3 海軍大将
明28(1895). 8. 5 侯爵
明31(1898). 1.20 元帥
明31(1898).11. 8 内務大臣
明33(1900).10.19 免内務大臣
明35(1902). 7.18 死去

※明治5年までは旧暦

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