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聯合艦隊司令長官伝 (5)坪井航三

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は坪井航三です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

佐官まで

 坪井つぼい航三こうぞうは天保14(1843)年3月7日、長州三田尻、現在の下関に生まれた。父は長州藩に仕える医師である。はじめはら信道のぶみちと称したがのちにやはり医師の坪井家に養子に入る。家業の医学を学んだが、欧米諸国との四国戦争に従軍したのをきっかけに藩の海軍に入り、やがて純然たる海軍士官に転じた。戊辰戦争に従軍したあと、新政府海軍に出仕して明治4(1872)年6月に海軍大尉に任官し甲鉄こうてつ艦副長をつとめたがほどなく退艦してアメリカ軍艦コロラドに乗り組む。実習をおこないながらアメリカ本国に渡り、大学に留学する。帰国して明治7(1884)年8月1日に海軍少佐に進級し、砲艦第一だいいち丁卯ていぼうの艦長に補せられる。第一丁卯は古巣の長州藩から移管された艦だったが、密漁の警戒のため千島列島の択捉島に派遣されていた明治8(1875)年8月9日、濃霧の中で進路を誤り座礁して破壊してしまった。乗員は救助されて無事だったが艦長の坪井の責任は免れず、しばらく艦船勤務から外れることになる。
 西南戦争の前後は横須賀で迅鯨じんげいなどの艤装に従事した。明治12(1879)年に艦船勤務に復帰し、迅鯨艦長、磐城ばんじょう艦長を歴任した。明治14(1881)年には海軍省規程局勤務となり8月3日に海軍中佐に進級した。海軍省規程局は制度取調掛を常設化したもので海軍部内の様々な規定を企画制定し修正する部署である。1年ほどつとめて日進にっしん艦長、コルベット海門かいもん艦長を経て、作戦計画を担当する組織として新設された海軍軍事部で第二課長を命じられる。第二課は艦隊の編制や訓練計画を担当した。横須賀造船所長だった明治18(1885)年6月20日に海軍大佐に進級する。海軍省艦政局次長、火薬製造所長といった技術関係の職場を歴任したのち、常備小艦隊の旗艦であった高千穂たかちほ艦長に補されて、井上いのうえ良馨よしか司令官の参謀長を兼ねた。

第一遊撃隊司令官

 明治23(1890)年9月24日に海軍少将に進級し、佐世保軍港司令官に補せられた。軍港司令官は鎮守府司令長官の指揮をうけて所在兵力を指揮して軍港の守備にあたるとされていた。明治25(1892)年からは江田島の海軍兵学校長、翌年には海軍大学校長をつとめる。19世紀も終わりに近づいていた当時、技術の急速な進歩を背景に軍艦の構造は様変わりしていた。その一方で、海洋ではイギリスが圧倒的な優位を保っており、1866年のリッサ沖海戦を最後に、装甲艦同士の大規模な海戦は起きていなかった。将来の海戦でどのような戦法をとるべきかという議論は盛んにおこなわれていたが机上の議論にならざるを得なかった。高級指揮官と参謀の養成を担当する海軍大学校がこうした議論に無関心でいられるはずがない。校長の坪井は単縦陣形を強く主張した。何かというと「単縦陣、単縦陣」というので坪井自身に「単縦陣」という渾名がついた。
 日清間の情勢が切迫した明治27(1894)年、坪井を常備艦隊司令官にあてようという話が持ち上がった。艦隊司令官は司令長官の下で一部の指揮をとる立場である。司令長官の伊東いとう祐亨すけゆきは薩摩出身の海軍中将だが坪井とは同年の生まれで、長州出身で少将の坪井には自分が伊東の下風に立たされることにはためらいがあった。それを説得したのが海軍省主事の山本やまもと権兵衛ごんべえだったといわれている。山本は坪井に「閣下年来の主張を実地に検証する絶好の機会ではないですか」と坪井の自尊心に訴え、坪井もこれを聞いて司令官職を承諾した。坪井があたえられた戦力は浪速なにわ、高千穂、秋津洲あきつしまといった高速な巡洋艦で、この年就役したばかりの吉野よしのに旗艦を置いた。これを第一遊撃隊と呼ぶことにした。
 日清戦争がはじまると坪井が指揮する第一遊撃隊はまず豊島海戦で朝鮮海域の清国海軍部隊を駆逐し、黄海海戦では低速の清国艦隊を翻弄して痛撃を加えた。まさに「閣下年来の主張」である単縦陣の効果を実地に検証する結果となり、日本のみならず各国から注目された。黄海海戦のあと第一遊撃隊は清国艦隊が逃げ込んだ旅順を偵察し、清国艦隊がさらに威海衛に移ったことを確認すると陸軍部隊が空になった旅順を占領した。坪井は占領した旅順を任された、といえば聞こえはいいが、要は体よく艦隊を追い出されたのである。坪井の後任は参謀長から昇格した薩摩出身の鮫島さめじま員規かずのり、のちにはやはり薩摩出身の東郷とうごう平八郎へいはちろうである。坪井は旅順から甥にあてた手紙の中で、艦隊を指揮できない不満を述べている。

常備艦隊司令長官

 明治28(1895)年8月20日、男爵を授けられて華族に列せられる。日清戦争がひと段落した明治29(1896)年2月26日に常備艦隊司令長官に補せられるのと同時に海軍中将に進級した。しかしこの頃からすでに坪井は体調を崩していたらしい。横須賀鎮守府に移って負担を軽減したが焼け石に水だった。

 坪井航三は明治31(1898)年2月1日死去した。満54歳。海軍中将従三位勲二等功三級男爵。

海軍中将 男爵 坪井航三 (1843-1898)

おわりに

 坪井航三も特に戦術の大家として知られており、海外では伊東よりもむしろ有名なのではないかと思いますが、長州出身だったのと比較的早く亡くなったため日本では意外に知られていないようです。

 次回は柴山矢八です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は第一遊撃隊の旗艦吉野)

附録(履歴)

天保14(1843). 3. 7 生
明 4(1871). 6.  海軍大尉 甲鉄艦副長
明 4(1871). 6.23 免
明 4(1871). 9.10 米艦及米国留学
明 7(1874). 8. 1 海軍少佐
明 7(1874). 8.13 第一丁卯艦長
明 9(1876). 3. 9 長崎出張所在勤
明 9(1876). 8.19 提督府出勤
明 9(1876). 9.11 迅鯨艤装掛
明10(1877). 4.17 迅鯨艤装掛/天城艤装掛
明10(1877). 6. 9 迅鯨艤装掛
明10(1877). 6.22 横須賀造船所在勤
明11(1878). 6.15 扶桑・金剛・比叡三艦艤装掛取扱委員
明12(1879). 2.21 迅鯨艦長
明12(1879). 8.19 磐城艦長
明14(1881). 5.23 免
明14(1881). 7.12 海軍省規程局出勤
明14(1881). 8. 3 海軍中佐
明15(1882). 7. 7 日進艦長
明16(1883). 8.16 海門艦長
明17(1884). 2. 6 海軍軍事部出勤
明17(1884). 2. 9 海軍軍事部第二課長
明17(1884).12.15 横須賀造船所長/横須賀知港事
明18(1885). 6.20 海軍大佐
明19(1886). 2. 1 海軍省艦政局次長兼兵器課長
明20(1887).10. 8 火薬製造所長
明22(1889). 4.17 高千穂艦長/常備小艦隊参謀長
明23(1890). 9.24 海軍少将 佐世保軍港司令官
明25(1892).12.12 海軍兵学校長
明26(1893).12.20 海軍大学校長/海軍将官会議議員
明27(1894). 6.19 常備艦隊司令官
明27(1894).12.17 旅順口根拠地司令官
明28(1895). 8.20 男爵
明29(1896). 2.26 海軍中将 常備艦隊司令長官
明30(1897). 4. 9 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
明31(1898). 2. 1 死去

※明治5年までは旧暦

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