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峠のむこうにジャンボ機が墜ちた夏

 一日遅れですが40年近い昔話をエッセイふうにつづります。

昭和60年の夏

 大学に入って最初の夏休み、僕は友人たちと長野県に来ていた。附属高校から内部進学した僕らは大学でサークルをつくった。高校時代に友人が入っていた部活(僕は入っていなかった)の延長のようなサークルで、山中の鉱山あとのズリ(鉱石ガラ)の中から水晶を探したり、夜中に流星群を観測したりするという、バブル期真っ最中とはとても思えないような硬派なサークルだったが、要するに気の知れた友人同士でつるんで遊ぶのが楽しかったのだろう。正直、水晶にも流星群にもそれほど興味があったわけではない。僕は小学生のころからのロケットマニアで宇宙開発には強い関心はあったが、それと流星群は別の話だ。

 毎年、8月中旬にはペルセウス座流星群が観測される。流星群は、彗星などが軌道上に残していった塵のあとを地球が横切ることで起こるので、毎年決まった時期に起こるのだ。ちょうど夏休みのしかもお盆にかかるので徹夜で観測するには都合がいい。その年の極大は8月12日から翌日にかけての夜だった。厳密な極大は明け方に近いころだったように記憶している。僕らは12日の朝出発してその日はそのまま徹夜で観測し、翌日一泊して帰京するという計画を立てた。目的地は山梨県境に近い長野県で、野辺山からさらに山側にはいったところだった。地名で言うと長野県南佐久郡川上村になる。

 高校時代は電車ででかけていたそうだが、大学生になったので車移動になった。たしか2台で、1台は免許取り立ての同級生H君が運転する自宅のトヨタ・カローラ、もう1台はなぜか同行することになった高校の地学教師(部活の顧問だった)K先生が運転するホンダ・インテグラだった。H君はカローラの荷台に望遠鏡の鏡筒と赤道儀を積み込んだが、そのせいで車体が後ろに傾いて前が上がった状態になり「常時ハイビーム」と言われた。中央自動車道を須玉ICでおりて清里方面にむかい、野辺山で右手(東方向)に折れて山道を登っていくと村営かなにかのちょっとしたグラウンドがあった。まわりに街灯などの明かりはなく、山の中だが意外に開けていて観測には絶好のロケーションだった。到着したのは午後のわりと遅い時間帯だったと思う。

 僕らはいったん現地を確認したうえで、日があるうちにと食事と買い出しにでかけた。また車に分乗して野辺山の駅前に出て酒やつまみを買ったり(未成年だったのだが)、食堂で夕食をとったりした。食堂のテレビでは甲子園の高校野球を流していた。

流れる星たち

 観測場所であるグラウンドに戻り、望遠鏡やカメラをセッティングしていると日が暮れてきた。H君は赤道儀の設定に苦労していたことを覚えている。最終的には諦めてしまったようだ。もっとも、流星群の観測に望遠鏡はあまりむいていない。肉眼かせいぜい双眼鏡が適しているのだ。ペルセウス座流星群は、流星が「飛ぶ」中心である放射点がペルセウス座にあるのでそう呼ばれるわけだが、実際に流星が光って観測されるのは放射点からある程度離れた位置になる。つまり大まかにいうと流星は放射点であるペルセウス座を中心とする円周上に現れるので、空の特定の範囲だけをみているわけにはいかない。流星観測のコツは、例えば地面にレジャーシートを広げて仰向けに寝転がり、どこともなく空全体をぼんやりと眺めてその視界になにか動くものが入ってきたらすぐさまそちらにピントを合わせるというものになる。
 当時のカメラはデジタル以前のフィルムカメラで、撮れたかどうかは現像してみないとわからないという現代の若者からすると実にまどろっこしい代物だが、それを三脚に固定してシャッターをバルブで例えば1分間開放する。その間にもし流星が見えたらそのタイミングでシャッターを閉じるという手順だった。うまくすれば星座の中にカッターでひっかいたような流星が写り込んでいるというあんばいである。この日は新月が近く観測条件は良かった。

 本格的に「観測」を始めたのは夜の8時頃だっただろうか。極大は明け方近くということだったのでそのころはまだ予行演習という気分だった。それでも1時間のあいだに10個くらいは流星を観測できたかもしれない。少し気になったのは、そうした流星よりもかなり多い頻度で点滅する赤や白の標識灯が通り過ぎることだった。観測にとっては邪魔者だ。「今夜は飛行機がよく通るね」「流星群ってこういうんじゃないよね」そんな会話をしたような気がする。

8月13日の朝

 ところが10時すぎころから空の端に雲が現れはじめた。真っ暗な夜に雲が出たのがわかるのかと思うかもしれないが、雲は地上の明かりを反射して真っ暗な空に白く浮き上がり実に目立つのでよくわかる。日付が変わるころには空全体を雲がすっかり覆ってしまった。極大はこれからだというのについてない。しばらく粘ったがいっこうに晴れる気配がないので、僕らは機材をそのままにして車の中で寝てしまった。

 夏の日の出は早い。5時前にはすでに明るくなり、僕らは目を覚ました。ガラスは水滴で曇っていると思ったのだが、ドアをあけてみると霧に覆われていた。信州の朝は真夏とはいえ肌寒い。いまさら早起きしてもしかたないので、僕らは車の中でしばらくごろごろしていた。退屈だったのか、誰かがラジオをつけるとおかしな放送が流れていた。「…さん、…さん、…さん…」アナウンサーが何かの名簿を読み上げている。しかもそれはいつまでもいつまでも延々と続くのだ。「なんだこれ」僕らは顔を見合わせた。インターネットも携帯電話もなかったそのころ、長野の山中で僕らが利用できる情報源はかろうじて入るラジオだけだった。
 霧が晴れたころにはもう1台で寝ていた連中も起きてきた。

「ラジオ聞いた?」
「なんか飛行機が墜ちたらしいよ」
「この近くみたいだね」
「昨夜飛んでいた飛行機はそれを探してたのか」

とは言え僕らに何ができるわけでもない。主目的であるペルセウス座流星群観測は、極大時間帯を逃したとはいえ数時間でも観測できたことでよしとするしかない。カメラの方は帰京して現像するまで結果はわからない。確認できるのは後期授業が始まるころになるだろう。

舞い降りるバートル

 前夜ひろげた装備はそのままにして寝てしまったので、後片付けにかかったのは朝になってからだった。この日は適当な宿をとって休んで翌日帰京する予定なので急ぐ必要はない。のろのろと片付けをはじめたころ、1機のヘリコプターが目に入った。「バートルだ」航空機マニアのM君がつぶやいた(いまは某社でヘリコプターをつくっている)。航空自衛隊の救難ヘリコプターだ。昨日の事故の関係で出動しているのだろう。いまなら「ご苦労様です」とでも思うのだろうが、そのころは若造のことで特に何も思わずぼんやりと眺めていた。
「あれ、近づいてきてない?」
「こっちに向かってきてるね」
「え、降りてくる?」
あれよと言う間にそのバートルは目の前のグラウンドに着陸した。このあたりで着陸できそうなのはたしかにこのグラウンドくらいのものだろうが、まさか目の前に着陸するとは思っていなかった。僕らが呆然としていると、ローターは回したままそのヘリコプターから乗員がひとりおりてきた。飛行用ヘルメットをかぶり、飛行服を身につけた自衛隊員のようだ。われわれ一同の中でひとりだけ年かさのK先生をみつけると駆け寄ってきてこういったのだ。
「町まで乗せてもらえませんか」
先生は快諾した。実は先生は生徒のあいだでも有名な走り屋だった。愛車のインテグラはパリパリにチューニングされていた。国家権力のお墨付きを得たK先生のはりきったことは想像に難くない。その自衛隊員を助手席に、ついでに僕らのなかのひとりを後部座席に乗せ、自慢のインテグラを駆って意気揚々と走り出した。残されたカローラ組はそれを見送った。グラウンドに着陸したバートルは隊員の帰りを待つことなくそのまま飛び立った。

夏の置き土産

 K先生のインテグラは1時間ほどで戻ってきたように思う。自衛隊員を駅前で下ろしてきたそうだ。同乗していた仲間に聞いたところによると、K先生はウキウキで山道をかっとばし、助手席の自衛隊員はドアの上の取っ手にしがみついて「そ、そんなに急がなくても大丈夫ですよ」と言っていたという。「普段ヘリコプターに乗っている自衛隊員がビビるなんてよっぽどだったんだろうな」と噂し合い、その後もちょくちょく話草にしたものだった。あとから考えてみると、なんでそんな必要があったのかはわからない。連絡なら無線でやればいいだろうに、なんでわざわざ1人おろす必要があったのか。戻りを待たずに飛んでいってしまったのも不可解である。しかし確かにそれはあったのだ。「自衛隊員がビビっていた」という話は「盛られた」可能性はある。

 昼過ぎに改めて町までおり、適当に観光(というほどの観光地でもなかったが)をした。野辺山の電波望遠鏡などを見学したおぼえがあるがバートルの件があまりに印象が強くてはっきりとは覚えていない。民宿に投宿してみると日航機事故の話題でもちきりだった。僕らはようやくやや詳しい情報を得ることができた。墜落地点は最初は長野県と言われていたけれど、夜が明けて位置がはっきり確認できてみると尾根をひとつ超えた群馬県側だったこと。前日の夕方、ちょうど僕らが夕食を摂っていたであろう前後にその上空あたりを事故機が通過していたと考えられること。宿のテレビで見た、生存者の14歳の少女が自衛隊員に抱きかかえられて吊り上げられていく映像は強く印象に残った。

 翌日帰京し、現像に出したフィルムの中で流星がちゃんと写っていたのは数枚だった。このあとも何度か同じような観測をした結果を踏まえていうと、そんなに悪くない結果だった。しかしそのグラウンドで流星群の観測をすることは二度となかった。僕らは毎年毎年よりよい環境を求めてさまよい歩くことになる。あの日の出来事も、年月が経つと幻だったのではないかと思うくらい実感が薄れてきた。しかし友人と話してみるとみんなが覚えているのでやはり現実にあったことなのだろう。

 あのあと、H君のカローラはサスペンションがへたってしまったらしく、望遠鏡を乗せない空荷でも後部が少し下がる状態になってしまった。夜に走っていると対向車からしばしばパッシングを受けたという。

(カバー画像は航空自衛隊 KV-107 バートル - Wikipediaより)

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