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海軍大臣伝 (17)嶋田繁太郎

 歴代の海軍大臣について書いています。今回は嶋田繁太郎です。
 前回の記事は以下になります。

佐官まで

 嶋田しまだ繁太郎しげたろうは明治26(1883)年9月24日、東京に生まれた。父はもと幕臣の神官で、猿楽町にあった東京中学を経て明治34(1901)年12月に江田島の海軍兵学校に入校し、明治37(1904)年11月14日に卒業して海軍少尉候補生を命じられた。第32期生192名中、卒業成績は27位だった。首席はほり悌吉ていきちである。すでに日露戦争がはじまっており、候補生は韓崎丸からさきまるで短期間の実習ののち艦隊に配属された。嶋田の配属は巡洋艦和泉いずみである。和泉は日本海海戦の日の早朝、バルチック艦隊を発見した信濃丸しなのまるから監視を引き継いで敵の動向をつぶさに聯合艦隊司令部に伝えて勝利に結びつけたことで知られる。
 明治38(1905)年8月31日に海軍少尉に任官し、戦後は呉水雷団第七水雷艇隊附として水雷艇に乗り組む。砲術学校と水雷学校の普通科学生を相次いで修め、その間の明治40(1908)年9月28日に海軍中尉に進級する。水雷学校附属の練習艇隊附のあと、巡洋艦新高にいたか乗組を経て巡洋艦音羽おとわ分隊長に補せられる。明治42(1908)年10月11日に海軍大尉に進級する。横須賀海兵団分隊長のあと、海軍大学校乙種学生と海軍砲術学校高等科学生を修了して砲術畑(鉄砲屋)に足を踏み入れた。装甲巡洋艦筑波つくば分隊長、戦艦摂津せっつ分隊長を経て海軍大学校甲種学生(第13期生)を命じられた。
 甲種学生修了と同時に大正4(1915)年12月13日、海軍少佐に進級し戦艦敷島しきしま砲術長を短期間つとめたのちにイタリア駐在を命じられる。はじめは大使館附海軍武官事務補佐という肩書きだったがまもなく正式に武官補佐官の配置がもうけられるようになり、ついで大使館附海軍武官に昇格した。当時イタリアは第一次世界大戦に1年ほど遅れて連合国側で参戦し、英仏と共同でアドリア海の出口を封鎖してオーストリア艦隊を封じ込めていた。地中海ではドイツとオーストリアの潜水艦が活発に活動していて、連合軍からの要請で日本海軍も第二特務艦隊を派遣した。第二特務艦隊が基地としたのはイギリス領のマルタやアレクサンドリアだが、イタリアと共同作戦をおこなうことも多く、駐在海軍武官が調整に働くこともあっただろう。第一次世界大戦の終結をみて帰国し、練習艦隊参謀として東南アジア経由で再び地中海まで往復した。
 海軍軍令部作戦課(第一班第一課)で勤務していた大正9(1920)年12月1日に海軍中佐に進級した。2年半の作戦課勤務のあと、戦艦日向ひゅうが副長の1年をはさんで海軍大学校教官を3年つとめた。当時の講義メモ「嶋田メモ」は基本資料として重用されたが、硬直した作戦計画を招いたという批判もある。海大勤務中の大正13(1924)年12月1日に海軍大佐に進級した。
 大正16・昭和2(1927)年度は艦隊で第七潜水隊司令(第二艦隊、伊号第1・第2・第3潜水艦)をつとめた。鉄砲屋の嶋田が潜水隊司令をつとめるのは珍しい。巡洋艦多摩たま艦長、練習戦艦比叡ひえい艦長を経験して昭和4(1929)年11月30日に海軍少将に進級する。

支那方面艦隊司令長官

 昭和5(1930)年度は飯田いいだ延太郎のぶたろう長官の下で第二艦隊参謀長をつとめた。翌昭和6(1931)年度は聯合艦隊参謀長に転じ、山本やまもと英輔えいすけ長官に仕えた。昭和6(1931)年12月には広島湾に面する大竹の海軍潜水学校長に補せられた。鉄砲屋のわりに大佐時代に潜水隊司令をつとめるなど意外に潜水艦との縁がある。しかし2か月後に上海事変が起こり、新設された第三艦隊参謀長として中国にわたる。長官は野村のむら吉三郎きちさぶろうだった。停戦の成立後に帰国して海軍軍令部で情報担当の第三班長、ついで作戦担当の第一班長をつとめる。
 昭和8(1933)年10月に軍令部の改編があって肩書きが軍令部第一部長とかわった。昭和9(1934)年11月15日に海軍中将に進級し、昭和10(1935)年12月2日に事実上の軍令部トップである軍令部次長に補せられた。前後5年あまり軍令部の中枢で働き続けることができたのは、軍令部総長だった伏見宮ふしみのみや博恭ひろやすおう元帥のお気に入りだったことも影響していただろう。
 日中戦争勃発後の昭和12(1937)年12月に第二艦隊司令長官に親補される。当時、聯合艦隊司令長官は同期生の吉田よしだ善吾ぜんごだった。1年つとめて呉鎮守府司令長官に移り、昭和15(1940)年5月に及川おいかわ古志郎こしろうをついで支那方面艦隊司令長官に親補される。かつて上海事変で第三艦隊参謀長をつとめたこともある嶋田は自負もあったのだろう、着任挨拶で「自分の在任中に事変を解決する」と抱負を延べたが、もはや戦争は軍事的な解決が困難な状況に至っておりとても実現できるものではなかった。隷下の第二遣支艦隊が実施した北部・南部仏印進駐は日本とアメリカの関係を決定的に悪化させた。この間、昭和15(1940)年11月15日に海軍大将に親任された。

海軍大臣

 昭和16(1941)年9月1日、横須賀鎮守府司令長官に親補された嶋田は帰国した。日米交渉はすでに始まっていたが双方の主張の隔たりは大きく、軍部が交渉の期限としていた10月上旬が迫っていた。ついに10月も半ばとなり、交渉の妥結もできず、軍部の主張する開戦にも踏み切れない近衛このえ首相は辞職した。次の首相に指名されたのは陸軍大臣の東条とうじょう英機ひできだった。海軍大臣の及川古志郎は留任するつもりだったが、嶋田が海軍大臣に就任することになった。海軍省での勤務経験が皆無でむしろ軍令系とみられていた嶋田が海軍大臣に就任することになったのは後見人である伏見宮の意向が働いたといわれる。当時、海軍部内の重要人事や政策決定には伏見宮の了解を得るという不文律があった。
 前大臣の及川は、近衛首相との非公式な会談では開戦反対の意向を伝えながら、閣議の席では首相に一任と下駄を預けて判断と責任を回避した。軍部との衝突も回避したい一方で開戦の責任もとりたくない近衛は辞職する他の選択肢を選べなかった。やはり開戦に反対だった嶋田は東京に来てはじめて交渉の状況や物資の状態を知り、さらに内閣での議論をみて反対を貫くのは無理だと判断した。国内政治を優先して対外戦争に踏み切るという決断だった。悪い意味で生真面目な東條は近衛と違って責任を回避せず、開戦を決定する。同期生の海軍大臣嶋田から開戦決定を知らされた山本やまもと五十六いそろく聯合艦隊司令長官は「嶋ハンはおめでたいんだから」と苦々しげに吐き捨てた。

 戦局が順調だったのは開戦から半年ほどのあいだだった。ソロモン諸島ガダルカナルに米軍が来襲すると日本軍は消耗戦に巻き込まれる。特にガダルカナルで前面に立った海軍の損害は激しかった。最初に問題になったのは輸送船だった。当初の計画では初期の作戦が一段落したあとは、徴用商船を削減して民間に返して物資の輸送にあてるとされていた。しかし統帥部はガ島戦での消耗の穴埋めと、増援作戦に使用するための徴用増加を求め、予定通りの徴用解除を進めたい政府と対立した。結局、解除を繰り延べるかたちで決着したが国内経済に与える影響は少なくなかった。さらに航空機製造に必要な資源の分配では陸海軍のあいだで対立がおきた。もともと海軍では中国大陸や満州に大規模な兵力を張り付けている陸軍に不満が大きく、米軍の攻勢の矢面に立っている海軍に優先して資源を配分しろという意見が強かった。この交渉で海軍側の責任者は海軍大臣の嶋田だったが、東條陸軍大臣との交渉で決着した結果は名目上対等という玉虫色のもので、海軍側に不満が残った。かねてから陸軍との協調を最優先する嶋田の態度は部内から「東條べったり」と批判されていたが、こうした悪評がますます募ることになる。
 ソロモン・ニューギニアといった南東方面でも手一杯だった日本軍だが、昭和18(1943)年末にはいよいよ中部太平洋方面から空母機動部隊を押し立てた米軍の大規模な反攻がはじまった。昭和19(1944)年2月、アメリカ機動部隊が中部太平洋の日本軍の拠点トラック諸島を襲撃して壊滅的な損害を与えた。これは海軍でも現地司令長官が更迭されるスキャンダルになったが、影響は海軍だけにとどまらなかった。南方に出張していた参謀本部の参謀が空襲時にたまたまトラックに滞在しており、その報告を聞いた東條首相兼陸軍大臣は危機感を抱いた。戦争指導力の強化を目的としてみずから参謀総長を兼ねることを表明し、海軍大臣の嶋田も同様に軍令部総長を兼ねるよう求めた。
 これは大きな議論を呼ぶ。もともと政府から参謀本部の独立を求めてきたのは陸軍だった。憲法の規定はそうした実体を追認するものだった。その陸軍が今になって参謀本部を事実上陸軍省に隷属させるようなことをするのは憲法違反ではないか、と追求された東條は参謀本部の独立は変わらず、陸軍大臣と参謀総長の兼務は憲法の範囲内で省部の協調のためにおこなえる最善の方法だと答えた。また現に首相と陸軍大臣のほかに軍需大臣まで兼ねている東條が参謀総長まで兼ねるのは権力がひとりに集中しすぎる、ヒトラーが権力を集中して独裁に陥っている轍を踏むものだという批判には「ヒトラー総統は伍長出身。私は陸軍大将です」と応じて軍需大臣には近く専任者を置くとした。
 結局、2月21日付で杉山すぎやまはじめ参謀総長は辞職し、東條が首相・陸相在任のまま参謀総長に親補された。参謀次長は二人制となり後宮うしろくじゅん大将が高級参謀次長に補せられた。嶋田は海軍部内での支持低下をみて辞任を考えはじめていたが東條の提案を聞いて考えを改め、陸軍にならって永野ながの修身おさみを軍令部総長から辞職させみずから後任となる。二人目の軍令部次長には塚原つかはら二四三にしぞう中将をあてた。霞ヶ関の海軍省庁舎いわゆる赤煉瓦には、海軍大臣室は二階にあり三階には軍令部が入っていた。そこで嶋田は海軍大臣の職務をとるときには二階の海軍大臣室で勤務し、軍令部の職務をとるときには階段を使って三階に上がる。途中の踊り場で副官が嶋田の制服に参謀飾緒しょくしょ、通称「なわ」をつける。軍令部総長は参謀職とされており飾緒を着用する決まりだからである。三階から二階におりる場合には踊り場で「縄」を外す。この光景が毎日のように繰り広げられ、嶋田の総長兼務は「縄付き人事」と揶揄された。東條のいいなりに総長兼務という海軍の伝統にもとる人事をあえてした嶋田の評判は地に落ちた。

 東條が「難攻不落」と豪語したサイパンが一月で陥落するとたちまち批判が吹き出し苦境に陥る。東條は居残りを策して重臣に協力を求める。重臣が一致した意見として提示した三条件のうち二つは統帥の確立(参謀総長・軍令部総長の兼務をやめる)、嶋田海軍大臣の更迭だった。2月の人事と嶋田大臣の評判が特に悪いことがみてとれる。東條は嶋田を守ろうと動いたが、嶋田自身が「僕が辞めて君が留まれるなら喜んで辞める」と辞任を承知した。東條は涙を流して嶋田の手を握ったという。7月17日、嶋田は海軍大臣を辞任して軍令部総長専任となり、後継の海軍大臣には呉鎮守府の野村のむら直邦なおくにを選んだ。沢本さわもと頼雄よりお次官も更迭しおか敬純たかずみ軍務局長を昇格させた。しかし重臣が提示した三条件の本命は三番目、重臣の入閣だった。閣僚の数は決まっている。誰かを入れるには誰かに辞めてもらうしかない。東條はきし信介のぶすけ国務大臣に単独辞任を求めたが岸はこれを拒否。あらかじめ岸と重臣とのあいだで話がついていたのだ。明治憲法では内閣総理大臣に閣僚の罷免権はない。重臣の協力を得ることが絶望的になった東條は18日に総辞職した。

 後継となる小磯こいそ内閣は22日に成立した。嶋田は海軍大臣は辞任したものの軍令部総長にはとどまり「さすがに図々しい」と評判になったが、現役に復帰して海軍大臣に就任した米内よない光政みつまさによって及川古志郎と交代し、8月2日付で軍事参議官に親補された。ある日、米内海軍大臣が昭和天皇から燃料の備蓄状況について御下問をうけ、主務者である軍需局長鍋島なべしま茂明しげあき中将に奉答用の資料作成を指示した。鍋島局長が「本当のことを書きますか」と聞くので米内が「おかしなことを聞くね。陛下に嘘は申し上げられない。もちろん本当のことさ。なんでそんなことを聞くのかね」と言うと「実は嶋田大臣のときはいつもメーキングした資料を作っておりましたので」と答えたという。「メーキング」というのは表面上の辻褄を合わせることで要するに数字を捏造していたことになる。

 失脚した嶋田がこのあと半年近く現役にとどまっていたのは奇跡のようなものだろう。東條は首相辞任と同時に予備役に編入された。嶋田が予備役に編入されたのは昭和20(1945)年1月20日のことである。

 戦後、開戦時の海軍大臣だった嶋田はA級戦犯容疑者として逮捕、起訴された。連合国に対する戦争を企てた共同謀議の罪を問われたのである。聯合艦隊司令長官の山本は戦死し、軍令部総長だった永野は起訴前に病死した。海軍の開戦責任を一手に引き受ける形になった嶋田は衆目の見るところ死刑は免れないとされていたが、実際に言い渡された判決は終身刑だった。サンフランシスコ講和条約の発効後、昭和30(1955)年に保釈された。
 嶋田繁太郎はもと海軍大将としてはもっとも遅くまで生きて、昭和51(1976)年6月7日に死去した。満92歳。海軍大将正三位勲一等功二級。

海軍大将 嶋田繁太郎 (1883-1976)

おわりに

 嶋田も評判の悪い人物で、戦後は開戦に同意したと言われ、戦時中は海軍部内から東條べったりと言われて全方位から非難を浴びせかけられています。負ける戦争を始めてしまった責任はもちろんあるわけで仕方ない部分はあるはずですがそもそも海軍大臣には向いていなかったんだと思います。戦争か否かという瀬戸際にそういう人事しかできなかった海軍そのものの問題のある意味犠牲者でもあったのでしょう。

 次回、最終回は野村直邦です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は嶋田が分隊長をつとめた防護巡洋艦音羽)

附録(履歴)

明16(1883). 9.24 生
明37(1904).11.14 海軍少尉候補生 韓崎丸乗組
明38(1905). 1. 3 和泉乗組
明38(1905). 8.31 海軍少尉
明39(1906). 7. 6 第七艇隊附
明40(1907). 8. 5 海軍砲術学校普通科学生
明40(1907). 9.28 海軍中尉
明40(1907).12.16 海軍水雷学校普通科学生
明41(1908). 4.20 練習艇隊附
明41(1908).10.23 新高乗組
明41(1908).12.23 音羽乗組
明42(1909).10. 1 音羽分隊長心得
明42(1909).10.11 海軍大尉 音羽分隊長
明42(1909).11.16 横須賀海兵団分隊長
明43(1910). 5.23 海軍大学校乙種学生
明43(1910).12. 1 海軍砲術学校高等科学生
明44(1911). 5.23 筑波分隊長
明45(1912). 4.15 摂津分隊長
大 2(1913).12. 1 海軍大学校甲種学生
大 4(1915).12.13 海軍少佐 敷島砲術長
大 5(1916). 2.10 伊国駐在被仰付
大 5(1916). 8. 1 伊国在勤帝国大使館附海軍武官補佐官
大 6(1917).12. 1 伊国在勤帝国大使館附海軍武官/造船造兵監督官
大 6(1917).12. 7 伊国在勤帝国大使館附海軍武官/造兵監督官
大 8(1919). 3. 1 帰朝被仰付
大 8(1919). 8. 5 練習艦隊参謀
大 9(1920). 6. 3 海軍軍令部参謀(第一班第一課)
大 9(1920).12. 1 海軍中佐
大11(1922). 2. 1 海軍軍令部参謀(第一班第一課)/海軍教育本部部員
大11(1922). 9.20 海軍軍令部参謀(第一班第一課)/海軍教育本部部員/参謀本部部員
大11(1922).11.20 日向副長
大12(1923).12. 1 海軍大学校教官
大13(1924).12. 1 海軍大佐
大15(1926).10.15 呉鎮守府附
大15(1926).12. 1 第七潜水隊司令
昭 2(1927).11.15 海軍軍令部出仕
昭 3(1928). 8.20 多摩艦長
昭 3(1928).12.10 比叡艦長
昭 4(1929).11.30 海軍少将 第二艦隊参謀長
昭 5(1930).12. 1 第一艦隊参謀長/聯合艦隊参謀長
昭 6(1931).12. 1 海軍潜水学校長
昭 7(1932). 2. 2 第三艦隊参謀長
昭 7(1932). 6.28 海軍軍令部参謀(第三班長)
昭 7(1932).11.15 海軍軍令部参謀(第一班長/第三班長)
昭 7(1932).12. 1 海軍軍令部参謀(第一班長)
昭 8(1933).10. 1 軍令部第一部長
昭 9(1934).11.15 海軍中将
昭10(1935).12. 2 軍令部次長
昭12(1937).12. 1 第二艦隊司令長官
昭13(1938).11.15 呉鎮守府司令長官
昭15(1940). 4.15 軍令部出仕
昭15(1940). 5. 1 支那方面艦隊司令長官
昭15(1940).11.15 海軍大将
昭16(1941). 9. 1 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
昭16(1941).10.18 免本職兼職 海軍大臣
昭19(1944). 2.21 海軍大臣・軍令部総長
昭19(1944). 7.17 免海軍大臣 軍令部総長
昭19(1944). 8. 2 軍事参議官
昭20(1945). 1.20 予備役被仰付
昭51(1976). 6. 7 死去

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