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聯合艦隊司令長官伝 (16)藤井較一

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は藤井較一です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

吾妻艦長

 藤井ふじい較一こういちは安政5(1858)年8月18日に岡山藩士の家に生まれた。維新後は東京で学んだが海軍兵学寮に入寮する。加藤かとう友三郎ともざぶろう島村しまむら速雄はやお吉松よしまつ茂太郎しげたろうらと同期になる。第7期は30名の同期生から4人の海軍大将を輩出し、うち2名が元帥となった他に例がない期であった。コルベット筑波つくばで明治13(1880)年4月に遠洋航海に出航、バンクーバー、サンフランシスコ、ホノルルを経由して10月に帰国した。直後の明治13(1880)年12月17日に海軍少尉補に命じられた。藤井の卒業成績は7位である。この後も海軍兵学校への通学を交えながらスループ富士山ふじやま、コルベット龍驤りゅうじょうに乗り組んだ。龍驤では明治15(1883)年12月から翌年にかけて南米まで往復する遠洋航海をおこなったが、この航海では多数の脚気患者を発生させ少なからぬ犠牲者が出た。帰国後の明治16(1883)年11月2日には海軍少尉に任官する。練習船摂津せっつに乗り組み、さらにコルベット筑波の分隊士に補せられる。筑波では明治19(1886)年2月から11月にかけて海軍兵学校第12期生徒を乗せて南太平洋方面に遠洋航海をおこなっている。藤井はたかだか6-7年のあいだに三度も遠洋航海を経験していた。帰国後は築地の海軍兵学校で生徒の指導にあたり、その間の明治19(1886)年12月21日に海軍大尉(当時海軍中尉の階級はない)に進級する。
 この後はしばらく艦船勤務がつづく。コルベット葛城かつらぎ分隊長、練習艦干珠かんじゅ分隊長、横須賀兵器部、巡洋艦高雄たかお乗組、巡洋艦千代田ちよだ乗組を歴任して海軍参謀部に勤務した。海軍参謀部は翌年に海軍軍令部に改編される。イタリア駐在武官に発令されたがわずか3ヶ月で帰国を命じられる。日清戦争の切迫によるものだろう。当時の交通事情からして任地には到着していなかっただろう。一方ですでに日本を離れており途中で呼び戻されたらしい。次の配置である軍令部局員に補されたのは開戦から1月以上たったころのことである。帰国すると、開戦時に捕獲した清国砲艦操江そうこうの分隊長に補せられる。すでに黄海海戦は終わっていた。砲艦大島おおしま分隊長ののち明治28(1895)年2月16日に海軍少佐に進級しコルベット武蔵むさし副長に移った。
 佐世保鎮守府参謀、横須賀鎮守府参謀のあと、巡洋艦高砂たかさごの受領のためイギリスに向かった。明治30(1897)年12月1日に海軍中佐(この日に復活)に進級し、副長として高砂で帰国したのは明治31(1898)年8月だった。装甲艦鎮遠ちんえん副長、砲艦鳥海ちょうかい艦長、巡洋艦須磨すま艦長を経て明治32(1899)年9月29日に海軍大佐に進級した。巡洋艦秋津洲あきつしま艦長、台湾総督府参謀を経てドイツ駐在武官に発令されたがまたも撤回された。海軍省軍務局第二課長に補せられたが短期間で海軍軍令部第二局長に移る。出師準備や演習計画を担当した。当時実用化されつつあった通信も担当した。
 日露戦争が目前に迫るころに装甲巡洋艦吾妻あづま艦長に補され、上村かみむら彦之丞ひこのじょうの第二艦隊に属した。戦争冒頭の旅順攻撃に加わったのち、ウラジオストクを基地とするロシア巡洋艦部隊の追跡に従事した。これは長く苦しい任務になり、なかなか成果を出せない上村艦隊に世論は厳しかった。ようやく蔚山で追い求めていた敵をとらえて打撃を与えることに成功したときには半年近く経過していた。

第二艦隊参謀長

 旅順の陥落をうけ、バルチック艦隊の来航を控えて人事異動がおこなわれた。藤井は第二艦隊参謀長に移り、上村長官を直接補佐することになる。日本海海戦の前、聯合艦隊ではバルチック艦隊の進路について議論が戦わされていた。予測を誤りバルチック艦隊のウラジオストク到着を許せば日本近海の制海権はたちまち危うくなる。藤井は対馬海峡を強く主張し、朝鮮南岸の鎮海湾で待つべきだと唱えた。結果としてバルチック艦隊は対馬海峡に現れた。聯合艦隊はバルチック艦隊の頭を抑え、圧迫されたバルチック艦隊は変針した。聯合艦隊の主力である戦艦で構成された第一戦隊は敵に合わせて変針する。やはり追随しようとした上村長官を藤井はおしとどめ、単純に後を追うだけではかえって敵に逃走の機会を与えるとして、敵の逃げ道をあらかじめ塞ぐ方向に進路を向けた。進退きわまったバルチック艦隊はついに壊滅に追い込まれる。凱旋観艦式直後の明治38(1905)年11月2日に海軍少将に進級し、戦時体制が解除されると第一艦隊参謀長に補せられる。長官は片岡かたおか七郎しちろうであった。
 横須賀鎮守府参謀長を経て、第一艦隊に今度は司令官として戻る。当時の司令長官は伊集院いじゅういん五郎ごろうである。佐世保海軍工廠長をつとめ、明治42(1909)年12月1日に海軍中将に進級して海軍軍令部次長に補せられた。同日に海軍軍令部長に親補されたのは伊集院である。藤井の次長在職期間はほぼ伊集院と重なる。

 大正3(1914)年はじめ、海軍の一大スキャンダルであるジーメンス事件が発覚した。4月16日に海軍大臣が八代やしろ六郎ろくろうに代わったが、八代は人事の刷新をはかって伊集院部長をも交代させた。その少し前、3月25日におこなわれた藤井の佐世保鎮守府司令長官親補は斎藤さいとうまこと大臣による人事だがどういった意味があったのか解釈は難しい。東京を離れた佐世保で温存しようという意図があったのかもしれない。藤井のジーメンス事件への関与は知られていない。

 八代体制は1年あまりで終わる。藤井の同期生である加藤友三郎が第一艦隊司令長官から海軍大臣に親任され、その第一艦隊司令長官には藤井が親補された。ところが藤井はわずか1月半でこれまた同期生の吉松茂太郎に第一艦隊を譲って横須賀鎮守府司令長官に移った。この理由としては藤井の健康悪化を考慮した加藤大臣が激務の第一艦隊から横須賀に移したという説明と、家族に感染症の疑いが出た藤井が天皇や皇族と接する機会の多い艦隊長官を辞退したという説明がある。後者については横須賀ではむしろ天皇に接する機会は増えるのではないかと考えられ、前者のほうに説得力を感じる。
 大正5(1916)年12月1日に海軍大将に親任されて軍事参議官に転じた。3年で待命となり、大正9(1920)年8月1日に予備役に編入されて現役を離れた。大正12(1923)年8月18日に後備役に編入される。

 藤井較一は大正15(1926)年7月9日死去。満67歳。海軍大将正三位勲一等功三級。

海軍大将 藤井較一 (1858-1926)

おわりに

 藤井較一は日露戦争では目立つ活躍をしましたが、その後はあまり目立ちませんでした。同期生が加藤友三郎、島村速雄、吉松茂太郎と錚々たるメンバーが揃っていた中で、どうしても埋もれてしまうのでしょう。

 次回は吉松茂太郎です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は藤井が艦長をつとめた装甲巡洋艦吾妻)

附録(履歴)

安政 5(1858). 8.18 生
明 7(1874).10.20 海軍兵学寮入寮
明12(1879). 9.10 筑波乗組
明13(1880).12. 1 海軍兵学校卒
明13(1880).12.17 海軍少尉補
明13(1880).12.24 海軍兵学校通学
明14(1881). 2.26 富士山乗組
明15(1882). 7.17 龍驤乗組
明16(1883). 9.24 海軍兵学校通学
明16(1883).11. 2 海軍少尉
明17(1884).10. 1 摂津乗組
明17(1884).10. 4 摂津乗組/海軍兵学校運用掛
明17(1884).10. 6 海軍兵学校学術卒
明17(1884).10.22 摂津分隊士
明18(1885). 2.23 筑波分隊士
明19(1886).11.22 海軍兵学校砲術教授心得兼生徒分隊士心得
明19(1886).12.21 海軍大尉
明19(1886).12.24 海軍兵学校砲術教授兼生徒分隊士
明19(1886).12.28 海軍兵学校砲術教授兼生徒分隊長
明20(1887).10. 8 葛城分隊長
明21(1888).11.15 干珠分隊長
明22(1889). 5.15 葛城分隊長
明22(1889). 8.14 横須賀鎮守府兵器部主幹
明23(1890). 3.28 横須賀鎮守府兵器部主幹兼武庫主幹
明23(1890). 5.13 干珠分隊長
明23(1890). 5.23 葛城分隊長
明23(1890).10.28 高雄乗組
明25(1892). 9. 5 千代田乗組
明25(1892).12.21 海軍参謀部第一課員
明26(1893). 5.20 海軍軍令部第一局局員兼副官
明27(1894). 4.10 伊国在勤公使館附海軍武官
明27(1894). 7.16 帰朝被仰付
明27(1894). 9. 9 海軍軍令部第一局局員
明27(1894). 9.24 操江分隊長
明27(1894).12. 5 大島分隊長
明28(1895). 2.20 武蔵副長心得
明28(1895). 2.26 海軍少佐 武蔵副長
明28(1895). 3.25 佐世保鎮守府参謀兼海岸望楼監督官
明28(1895). 7.25 横須賀鎮守府参謀兼海岸望楼監督官
明30(1897).11.27 高砂回航委員(英国出張被仰付)
明30(1897).12. 1 海軍中佐
明30(1897).12.10 高砂副長
明31(1898). 8.14 帰着
明31(1898). 9. 1 鎮遠副長
明31(1898).10. 1 鳥海艦長
明32(1899). 6.17 須磨艦長心得
明32(1899). 9.29 海軍大佐 須磨艦長
明32(1899).10. 7 秋津洲艦長
明33(1900). 5.20 台湾総督府海軍参謀
明33(1900).12. 6 独国在勤帝国公使館附海軍武官
明34(1901). 2. 9 海軍省軍務局第二課長
明34(1901). 4. 6 海軍軍令部第二局長
明36(1903).10.15 吾妻艦長
明38(1905). 1.12 第二艦隊参謀長
明38(1905).11. 2 海軍少将
明38(1905).12.20 第一艦隊参謀長
明39(1906).11.22 横須賀鎮守府参謀長
明40(1907).10.21 第一艦隊司令官
明41(1908). 8.28 佐世保海軍工廠長
明42(1909).12. 1 海軍中将 海軍軍令部次長/海軍将官会議議員
大 3(1914). 3.25 佐世保鎮守府司令長官
大 4(1915). 8.10 第一艦隊司令長官
大 4(1915). 9.23 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
大 5(1916).12. 1 海軍大将 軍事参議官
大 8(1919).11.25 待命被仰付
大 9(1920). 8. 1 予備役被仰付
大12(1923). 8.18 後備役被仰付
大15(1926). 7. 9 死去

※明治5年までは旧暦

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