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聯合艦隊司令長官伝 (23)加藤寛治

 歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は加藤寛治です。
 総説の記事と、前回の記事は以下になります。

三笠砲術長

 加藤かとう寛治ひろはるは明治3(1870)年11月2日に越前福井藩士であった加藤直吉なおきちの長男として生まれた。加藤直吉は戊辰戦争で新政府軍に従軍したあと海軍に出仕し、西南戦争では瀬戸内海の警戒にあたったりしたが、海軍大尉で早く亡くなった。海軍時代に加藤直吉は澤野さわの種鉄かずかねと同僚だったことがあり、加藤寛治と、澤野の実子である安保あぼ清種きよかずは海軍に入る前から面識があった。父の遺志を受け継ごうと考えたのか、海軍将校をめざして海軍兵学校に入校する。当時の兵学校は江田島に移転したばかりで校舎は整備されておらず湾内に碇泊した練習船に寝泊まりした。明治24(1891)年7月17日に第18期生61名の首席として卒業し海軍少尉候補生を命じられる。この年の遠洋航海はコルベット金剛こんごう比叡ひえいで行なわれオーストラリアからマニラに寄港し翌年の4月に帰国した。
 最初の配置は巡洋艦浪速なにわである。明治27(1894)年3月1日に海軍少尉に任官し、砲術練習所の学生を命じられたが朝鮮情勢の緊迫化をうけて教育を中断して横須賀海兵団に配属され、開戦後は戦地に派遣された。清国遼東半島南岸沖の長直路に置かれた艦隊根拠地で泊地防御にあたる砲台に配置される。旅順が陥落すると巡洋艦橋立はしだてに移り、威海衛の攻略や台湾平定に従軍した。戦後は砲術練習所に復帰し、中断されていた課程を終える。巡洋艦千代田ちよだで勤務したのち、日本がはじめて発注した本格的な戦艦富士ふじの受領のためにイギリスに派遣される。乗組士官として富士とともに帰国したのは1年後のことだった。その後も富士で勤務し分隊長に昇格して明治30(1897)年12月1日に海軍中尉、27日に海軍大尉に進級した。1月も経たないうちに中尉から大尉に進級したのは、明治19(1886)年に廃止されていた海軍中尉の階級がこの年に復活した経過措置である。
 通報艦龍田たつたの航海長のあと、ロシア留学を命じられた。日本海軍にとってロシアは衆目の一致する仮想敵国である。のち駐在に切り替えられたロシア滞在は3年に及んだ。帰国して戦艦三笠みかさ分隊長、巡洋艦笠置かさぎ航海長、戦艦朝日あさひ砲術長を経て明治36(1903)年9月26日に海軍少佐に進級した。日露戦争が開戦すると朝日は聯合艦隊の主力として出征する。旅順閉塞作戦が計画されると加藤は指揮官に志願したが同じ朝日の水雷長だった広瀬ひろせ武夫たけおが参加することになり砲術長と水雷長がどちらも艦を離れるのはまずいということで残留となった。第一次閉塞作戦が失敗したあと、加藤は聯合艦隊旗艦三笠の砲術長に転勤となった。旗艦の砲戦指揮は海戦の際に麾下各艦の基準になるものでその責任は重大である。三笠で加藤は、広瀬が第二次閉塞作戦で戦死したという報せを聞く。8月10日の黄海海戦で、聯合艦隊は旅順からの脱出をはかるロシア艦隊と交戦するが、このときの日本艦隊の砲撃戦はとても満足できるものではなかった。敵旗艦の艦橋に命中した砲弾が偶然ロシア艦隊司令官を戦死させなければ取り逃がした可能性は十分あった。この原因は加藤にはなく、長期の封鎖で艦底掃除ができず速力に劣った日本艦隊が終始長距離戦闘を強いられたことが主な理由だが、加藤は責任を感じただろう。旅順が陥落すると三笠砲術長を同期生の安保清種に引き継いで山本やまもと権兵衛ごんべえ海軍大臣の秘書官に補せられる。日本海海戦での安保や三笠の活躍を東京で聞いた加藤の心中は複雑だっただろう。
 戦後の明治39(1906)年9月28日に海軍中佐に進級し、翌年に艦隊に戻って装甲巡洋艦浅間あさま副長、筑波つくば副長をつとめたあと、今度はイギリスに駐在武官として派遣される。イギリスとドイツの建艦競争がちょうど超弩級艦に移ろうとしている時期で加藤が収集する情報は日本海軍にとって重要だった。明治43(1910)年12月1日に海軍大佐に進級してから帰国した。帰国後は江田島の海軍兵学校教頭に補せられた。校長は山下やました源太郎げんたろうである。

聯合艦隊司令長官

 兵学校教頭を2年間つとめて艦隊に戻り巡洋戦艦筑波つくば艦長、おなじく伊吹いぶき艦長をつとめる。伊吹艦長のときに第一次世界大戦が始まり、臨時編成された南遣枝隊の指揮官を兼ねた。イギリス海軍と共同で作戦するため駐在武官の経験がある加藤が選ばれたのだろう。派遣は年内で切り上げられ、第二艦隊参謀長に補せられた。長官は名和なわ又八郎またはちろうである。大正5(1916)年度は最新の国産主力艦である比叡ひえいの艦長をつとめた。年度末の大正5(1916)年度12月1日に海軍少将に進級した。横須賀の海軍砲術学校で砲術の専門家として士官や下士官兵の教育に携わったのち、旧式戦艦で編成された第三艦隊第五戦隊の司令官をつとめる。その後は横須賀鎮守府参謀長に補せられるが第一次大戦の終結をみてヨーロッパに派遣されて各国を視察調査した。1年におよぶ視察を終えて帰国すると海軍大学校長に補せられ大正9(1920)年12月1日に海軍中将に進級した。ワシントン軍縮会議が開かれると全権である加藤かとう友三郎ともざぶろう海軍大臣の首席随員として随行する。加藤寛治が軍縮に反対だったのはよく知られているが、大臣が一度腹を決めれば一介の随員にはいかんともし難い。加藤随員の悲憤ぶりは端で見ていて心配になるくらいだったという。こうした芝居がかった熱血ぶりが一部の人気を集めることになる。
 加藤の反対ぶりがそれほど問題にならなかったのは帰国後に海軍軍令部次長の要職にあてられたことでもわかる。大正時代の海軍ではまだ上官と異なる意見を持つこと自体は受け入れられていた。しかし次長としては比較的短い1年で第二艦隊司令長官に転出したのはやはり条約に対する見方が上層部と離れていたことが影響したのかもしれない。このときの聯合艦隊司令長官ははじめ竹下たけしたいさむ、後半は鈴木すずき貫太郎かんたろうである。さらに横須賀鎮守府司令長官を2年つとめた。

 大正時代がまさに終わろうとしていた大正15(1926)年12月10日に岡田おかだ啓介けいすけのあとを継いで聯合艦隊司令長官に親補された。大正天皇の大喪に出席したあとの昭和2(1927)年4月1日に海軍大将に親任される。前任の岡田長官は加藤にとって同郷の先輩にあたるが、訓練でも事故防止を重要視してあまり無理なことはさせなかった。それに飽き足りない部下の中には「保安艦隊だ」と陰口を叩いた者もあったという。岡田の時代、加藤は横須賀長官で直接それを見ていたわけではないが話を聞いて不満だったのだろう、熱血漢の加藤は自分が長官になると俄然猛訓練を打ち出した。夜間襲撃訓練も盛んに行なわれ「ぶつけるつもりで突っ込んでこい。実際はそう簡単にぶつかりゃせん。ぶつかりそうになったらこっちで避けるから」と指示していた。
 しかし8月24日の夜間訓練中に軽巡洋艦神通じんつうが駆逐艦わらびに衝突し、避けようとした軽巡洋艦那珂なかが駆逐艦あしに衝突するという二重衝突事故が発生した。美保関事件と呼ばれる。蕨は真っ二つに分断されて沈没し、葦も艦尾を切断されて切断部分は沈没、あわせて119名の犠牲者を出した。訓練が中止されて救助作業がおこなわれたが、作業のほとんどは駆逐艦がなどが担任して司令部が乗っていた戦艦には出番がない。参謀長の高橋たかはし三吉さんきちが「ここにいてもできることはないし、いったん舞鶴あたりに引き揚げませんか」というのに加藤が「そうしようか」と応じるのを耳にした参謀の大川内おおかわうち伝七でんしちが色をなして「部下がたくさん死んでいるのに長官が引き揚げるとはなんですか。たとえ何もできなくても長官は現場にいなければいけません」と諌め、加藤と高橋は一言もなかったという。事故のあと査問委員会が開かれたが司令部の責任は問われなかった。神通艦長の水城みずしろ圭次けいじ大佐は自殺した。加藤は翌昭和3(1928)年度も聯合艦隊司令長官をつとめ、軍事参議官に転じた。

美保関事件により艦首を損傷した神通

海軍軍令部長

 昭和4(1929)年の年明け早々に、海軍軍令部長の鈴木貫太郎が侍従長に転出することになる。後任となったのが軍事参議官の加藤寛治である。当時現役の大将で軍令部長の候補になり得るのはともに18期生の加藤または安保だった。19期生の谷口たにぐち尚真なおみは聯合艦隊長官になったばかりである。15期生の竹下勇はまだ定年まであいだがあるがどちらかといえば鈴木の世代である。加藤と安保はいずれも軍令部次長の経験があるが、おそらく聯合艦隊司令長官の経歴が評価されて加藤が選ばれた。当時の海軍大臣は岡田啓介である。
 加藤が軍令部長に親補されて1年もしないうちに補助艦の総量制限を主眼とするロンドン軍縮会議が始まった。加藤をはじめとする軍令部では対米七割を最低条件として要求したが全権の財部彪海軍大臣は七割にわずかに届かない比率で妥結した。政府回答案を審議する会議で加藤は不満足であるとして反対したが結局は政府と海軍省の意見が通り軍縮条約は調印された。軍令部の中でも特に強硬だった次長の末次すえつぐ信正のぶまさは野党の政友会と結託してこの問題を政治問題化し、条約の批准を阻止しようとする。熱血漢だが単純な加藤は末次に乗せられる形で反対を表明する。会議で反対意見を述べることと、あとになって自分も参加した会議で出された決定に反対を公言することは全く違うことなのだが、加藤はわかっていただろうか。
 天皇に直隷し、作戦について天皇を輔弼する責任をもつ海軍軍令部長は天皇に直接見解を述べる権限がある。この上奏権を用いて直接天皇に反対を訴えようとした加藤だが、加藤の前任者で侍従長の鈴木が「政府の意見と異なる見解を陛下に申し上げるのは適当ではない」と反対しいったんは流れた。鈴木の意見は単に侍従長としてではなく海軍軍令部長経験者としてその職責に関する見解を示すもので現任者である加藤としても無碍にはできなかったのだ。しかしこのやりとりがもれると鈴木が「上奏を阻止した」としてこれも問題になった。加藤はまたも上奏を望む。侍従長は助言はできても軍令部長がどうしても上奏すると言えば拒むことはできない。加藤の上奏を天皇は黙って聞いていた。

 昭和5(1930)年6月10日、部内の対立を招いたとして海軍次官の山梨やまなし勝之進かつのしんと海軍軍令部次長の末次が更迭された。その翌日には上奏を強行した責任をとって加藤軍令部長が辞職して軍事参議官に退いた。後継は谷口尚真である。条約が批准されたのちの10月3日には海軍大臣の財部彪も辞任した。海軍の首脳部が軒並み交代したことになる。

 その後も加藤は軍事参議官として現役にとどまり続けた。現役定限年齢に近づいた昭和10(1935)年ごろ、加藤を元帥にして生涯現役にとどめようという運動が一部で起こったが、大きな動きにならず実現しなかった。この運動に反対意見を述べた者を加藤が問い詰めたという話もある。

 加藤寛治は昭和14(1939)年2月9日死去。満68歳。海軍大将正二位勲一等功三級。

海軍大将 加藤寛治 (1870-1939)

おわりに

 加藤寛治はいわゆる艦隊派の領袖として良識派からは厳しい目で見られ、特に戦後はいろいろと批判されておりネガティブなエピソードばかりが伝えられている印象があります。本人は単純な熱血漢で末次などの陰謀家に乗せられただけという擁護論もありますが、それが事実としても乗せられた側に責任がないとは言えないでしょう。

 次回は谷口尚真です。ではまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は軽巡洋艦神通)

附録(履歴)

明 3(1870).11. 2 生
明24(1891). 7.17 海軍少尉候補生 比叡乗組
明25(1892). 5.20 浪速乗組
明27(1894). 3. 1 海軍少尉 浪速分隊士
明27(1894). 4.20 海軍砲術練習所学生
明27(1894). 6.27 横須賀鎮守府海兵団分隊士
明27(1894). 7.21 根拠地砲台附
明27(1894).12.11 橋立航海士
明28(1895).12.20 海軍砲術練習所学生
明29(1896). 3.31 千代田航海士
明29(1896).11. 6 富士回航委員(英国出張被仰付)
明29(1896).11.21 富士乗組
明30(1897).10.31 帰朝
明30(1897).11. 5 富士分隊長心得
明30(1897).12. 1 海軍中尉
明30(1897).12.27 海軍大尉 富士分隊長
明31(1898). 7. 8 龍田航海長兼分隊長
明32(1899). 2.18 海軍軍令部第三局局員
明32(1899). 5.13 露国留学被仰付
明33(1900). 8.15 露国駐在被仰付
明35(1902). 3.15 帰朝被仰付
明35(1902). 7.17 三笠分隊長
明36(1903). 2.18 笠置航海長兼分隊長
明36(1903). 7. 7 朝日砲術長心得兼分隊長
明36(1903). 9.26 海軍少佐 朝日砲術長兼分隊長
明36(1903).12.28 朝日砲術長
明37(1904). 3. 5 三笠砲術長
明38(1905). 2.13 海軍省副官/海軍大臣秘書官
明39(1906). 1.12 海軍省副官/海軍大臣秘書官/軍事参議官副官(大将山本権兵衛附属)
明39(1906). 9.28 海軍中佐
明40(1907). 9.28 浅間副長
明41(1908).12.10 筑波副長
明42(1909). 4. 1 海軍省出仕
明42(1909). 5. 3 英国在勤帝国大使館附海軍武官/造兵監督官
明43(1910).12. 1 海軍大佐
明44(1911). 6. 2 帰朝被仰付
明44(1911). 9.20 英国在勤帝国大使館附海軍武官/造船造兵監督官
明44(1911).12. 1 海軍兵学校教頭兼監事長
大 2(1913).12. 1 筑波艦長
大 3(1914). 5. 6 伊吹艦長/特別南遣枝隊司令官
大 4(1915). 2. 1 第二艦隊参謀長心得
大 4(1915).12.13 比叡艦長
大 5(1916).12. 1 海軍少将 海軍砲術学校長
大 7(1918). 1. 6 第五戦隊司令官
大 7(1918). 9. 4 海軍将官会議議員
大 7(1918).12. 1 横須賀鎮守府参謀長
大 8(1919). 6.10 海軍軍令部出仕(欧米各国出張被仰付)
大 9(1920). 6.17 帰朝
大 9(1920). 8.10 海軍大学校長
大 9(1920).12. 1 海軍中将
大10(1921). 9.27 ワシントン軍縮会議首席随員被仰付
大11(1922). 3. 2 帰朝
大11(1922). 5. 1 海軍軍令部次長/海軍将官会議議員
大12(1923). 6. 1 第二艦隊司令長官
大13(1924).12. 1 横須賀鎮守府司令長官/海軍将官会議議員
大15(1926).12.10 第一艦隊司令長官/聯合艦隊司令長官
昭 2(1927). 4. 1 海軍大将
昭 3(1928).12.10 軍事参議官
昭 4(1929). 1.22 海軍軍令部長/海軍将官会議議員
昭 5(1930). 6.11 軍事参議官
昭10(1935). 2. 1 軍事参議官/海軍高等技術会議議長
昭10(1935).11. 2 後備役被仰付
昭14(1939). 2. 9 死去

※明治5年までは旧暦

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