爵位を得て華族になった日本海軍軍人
明治17(1884)年から昭和22(1947)年まで60年にあまり、日本には爵位制度が存在しました。海軍軍人で爵位を得た者を挙げていきます。なお家柄や相続など本人の功績以外の理由での叙爵は除きます。
華族と爵位
明治のはじめ、堂上貴族と大名諸侯をあわせて華族とし、皇室の藩屏と位置付けた。しかし華族に関する法整備は遅れた。明治17(1884)年7月7日に華族令が制定され、この中で公侯伯子男の五等爵が規定された。その日から翌日にかけて個別に爵記が授与されたが、この中にはもともと堂上でも諸侯でもない士族の出身であるにもかかわらず、本人の勲功によって特に華族に列せられ爵位を与えられた者も含まれていた。こうしたいわゆる新華族はその後も増えていく。「勲功」を得る近道のひとつが軍人だった。
華族令制定と直後
明治17(1884)年の華族令制定時には、現在の閣僚に相当する参議には一律に伯爵が授けられた。海軍関係ではまず参議海軍卿である川村純義海軍中将がこれに該当した。同様に参議経験者の西郷従道が伯爵となったが彼は陸軍中将でありながら翌年の内閣制度発足で海軍大臣をつとめることになり、さらに最初の海軍大将となる。
同じタイミングで戊辰戦争や西南戦争で功績を挙げた陸海軍人が爵位を得た。樺山資紀は陸軍から海軍に転じたばかりでこの時点での功績はもっぱら陸軍軍人としてものだったが、子爵を授けられた。このほかに生粋の海軍軍人として伊東祐麿、中牟田倉之助、仁礼景範が子爵を得ている。ちなみにこの時の6名のうち中牟田だけが佐賀出身でほかはすべて薩摩の出である。
華族令制定時の叙爵基準は内規で定められ、これにしたがって爵位が決められた。ところがこの内規は公表されなかったので、自分が想定していた爵位を得られなかった者が不満を抱いた。不満をもった者は有力者に働きかけて自分の希望をかなえようとする。機械的な配分がかえって問題を呼ぶことをさとった伊藤博文らの政府関係者は調整に乗り出した。もちろん一度与えた爵位を引き下げるなど論外だったから、こうした調整は爵位の格上げや追加叙爵という形でおこなわれた。
明治20(1887)年5月、維新以降に功績を挙げた軍人に爵位が与えられた。まず大臣経験者でありながら戊辰戦争で政府に敵対した過去がたたったのか叙爵に漏れていた榎本武揚に子爵が与えられた(14日)。もっとも榎本は明治に入ってからロシアに外交官として派遣される際に海軍中将の階級を得、その後短期間海軍卿をつとめたものの、この時点、またこれ以降もまったく海軍とは縁が切れている。また維新前後に活躍したがその後早くに亡くなった伊集院兼寛に子爵が遺贈された(23日)(訂正:これは誤り。参照した資料が誤っていました。実際には明治はじめ海軍に奉職したもののその後海軍を離れて官吏として勤務。この時点ではまだ存命でした)。この他、井上良馨、赤松則良、松村淳蔵、真木長義が男爵を得ている(24日)。
日清戦争
日清戦争の功績による爵位の授与は戦争終結後半年の明治28(1895)年8月におこなわれた。まず5日、海軍大臣の西郷従道伯爵が侯爵に、戦時中に海軍軍令部長をつとめた樺山資紀子爵が伯爵にそれぞれ昇格し、聯合艦隊司令長官をつとめた伊東祐亨は子爵を与えられた。20日には相浦紀道、伊藤雋吉、坪井航三、主計官の川口武定に男爵が与えられる。
年がかわって明治29(1896)年6月5日、安保清康と有地品之允に男爵が与えられたのは日清戦争の功績調査もれの修正といったところだろうか。
明治33(1900)年5月9日、軍医の実吉安純に男爵が与えられたのは武功というよりは医学上の功績による。明治38(1905)年3月3日に男爵を得た高木兼寛も同様であろう。
明治35(1902)年2月27日、海軍大臣の山本権兵衛が男爵を得た。日英同盟締結の功績により閣僚全員が叙爵されたものである。
日露戦争
日露戦争の功績による生存者叙爵は明治40(1907)年9月21日、死没者への遺贈は同年10月2日におこなわれた。戦争終結後、ほぼ2年が経っていた。それだけ戦争の規模が大きくなっていたのだろう。叙爵者の数も日清戦争時に比べてはるかに多い。
伯爵を得たのが海軍軍令部長をつとめた伊東祐亨、海軍大臣をつとめた山本権兵衛、聯合艦隊司令長官だった東郷平八郎の3名である。山本は男爵から2等の昇格、東郷は無爵から一挙に伯爵に至った。
子爵を得たのは井上良馨と軍医の実吉安純で、いずれも男爵からの昇格である。
男爵を得た海軍軍人は26人におよぶ。主に戦時中、艦隊司令長官や戦隊司令官、鎮守府司令長官といった部隊指揮官、中央地方官庁で戦争にかかわった中将クラス以上の海軍軍人が叙爵にあずかった。列挙すれば瓜生外吉、鮫島員規、柴山矢八、井上良智、肝付兼行、梨羽時起、餅原平二、日高壮之丞、有馬新一、片岡七郎、内田正敏、上村彦之丞、伊集院五郎、出羽重遠、三須宗太郎、伊東義五郎、鹿野勇之進、富岡定恭、中溝徳太郎、橋本正明、向山慎吉、斎藤実、坂本俊篤、山内万寿治、機関官の宮原次郎、主計官の村上敬次郎となる。
死没者の遺贈は2名でいずれも男爵であり東郷正路と造船官の佐双左仲である。戦病死または終戦後の病没で戦死者ではない。
第一次大戦
第一次世界大戦に伴う叙爵はまず大正5(1916)年7月14日におこなわれた。まだ戦争は続いていたが初期の青島攻略の功績として海軍軍令部長の島村速雄、海軍大臣だった八代六郎、実際に攻略作戦を指揮した第二艦隊司令長官だった加藤定吉に男爵が与えられた。
ややくだって大正9(1920)年9月7日、海軍大臣の加藤友三郎が男爵を得た。シベリア出兵を含む第一次大戦全体の戦争指導を功績とみたのであろう。加藤友三郎はのち内閣を組織するが現職のまま大正12(1823)年8月25日病没し子爵に昇格する。
日露戦争に比べて第一次大戦は日本について言えば規模は小さかったのだが、それにしても爵位の授与は抑制的になっている。日露戦争ではある基準で一律に爵位を与えるようなことをしてしまったため、陸海軍のみならず高級官僚も多数爵位を得て、分家や臣籍降下した旧皇族なども加わり華族の数は明治17(1884)年の制定からほぼ倍増していた。昭和に入ると新規の叙爵はごく限られるようになる。
大正後半から昭和
大正14(1925)年4月9日、斎藤実男爵が子爵に昇格した。これは海軍軍人というよりも朝鮮総督を長くつとめた功績による。
昭和3(1828)年11月10日、昭和天皇の即位礼に伴う恩典として爵位が授けられることになり海軍からは聯合艦隊司令長官や海軍軍令部長を歴任した山下源太郎が男爵を得た。
昭和4(1929)年12月26日には長年技術の発展に貢献した功績から造船科士官の近藤基樹が男爵に叙せられた。
昭和9(1934)年5月29日、危篤に陥った伯爵東郷平八郎元帥を特に侯爵に昇格させた。西郷従道とならび東郷の侯爵は海軍軍人が得た爵位としては最高だった。東郷は翌日亡くなった。
昭和10(1935)年12月26日、満州事変の功績により海軍大臣の大角岑生が男爵に叙された。はじめ陸軍だけが叙爵対象のはずだったが、陸海軍のバランスをとって大角も叙爵されることになった。満州事変に冷淡だった海軍がその「功績」で爵位を得たことに陸軍では「海軍さんは口では偉そうなことを言いながら、ご馳走だけはちゃっかり召し上がります」とその便乗っぷりを批判する声があったという。
昭和11(1936)年11月20日、2.26事件で重傷を負って一命をとりとめた鈴木貫太郎が侍従長を退任するにあたって男爵を与えられた。
昭和18(1943)年2月17日、技術中将(造船中将を改称)で東京帝国大学総長の平賀譲が現職のまま死去し男爵を遺贈された。
昭和18(1943)年4月18日に山本五十六聯合艦隊司令長官が戦死し、元帥、大勲位、国葬を賜った。海軍からの要望では「男爵」というのもあったが宮内省に却下されたという。
おわりに
日露戦争と太平洋戦争を比べると爵位の与えられ方が段違いです。やはりそこには時代の違いというのがあったのでしょう。明治時代には戦功で爵位を得るというのは自然な発想だったのですが、昭和になるとどんなに功績が大きい人物であっても世襲の爵位を得るというのは違和感が感じられるようになりました。そのあいだの大正デモクラシーの影響かもしれません。
ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は大勲位頸飾。本文とあまり関係ないけどまったく関係なくもない)
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